ぽこけん

ぽこ&けんいちによる、海外ツーリング、国内ツーリング、テレマークスキー、温泉のホームページです


海外ツーリング レポート

ギニア 2003年2月28日~3月7日


■ポリスステーションに泊まる(2月28日)

セネガル南部から深いダストのダートを通って、ギニアへ入国。ミシラというローカルな国境に着いたのはもう夕方だった。税関の係官はランプの灯りのもと、慣れないカルネの書類を一生懸命に書いてくれた。それでいて賄賂の請求などなく、いたって親切だった。
もう暗くなっているし、ダートの道を進むのも危険なので、今日はどこかそのあたりでキャンプしようと思ってポリスに聞いたら、なんとポリスの建物の横にある、萱ぶきの小屋に泊まっていい、という。
日中、暑い時間帯にみんなが休憩する場所のようで、マットレスまで貸してくれた。村には電気がなく、暗くなるとランプが灯りがあちこちに点る。夜でも国境を越えてくる車が少ないながらもいるので、露店もポリスもちゃんと働いている。逆に朝も早くから起きだして仕事を始めるのには感心した。
萱ぶき小屋から村の様子を見ていたので、村の人たちの1日がよくわかった。ポリスも、イミグレも、両替屋も、露店の人々も、みんな同じ村の人々。職住接近、というかみんなで一緒に働いているのだった。

 

 

 

■健ちゃん、ギニアの悪路で転倒(3月1日)

国境からまたまた幅の広い赤土のダートが続く。走りやすいけれど、ときどき深いダストが溜まっている。これが砂より細かくて、対向車が来ようものなら、すごい土ホコリを巻き上げ、しばらく何も見えなくなってしまう。今は乾季だからいいけれど、雨季にはひどいぬかるみになりそうな道だ。そんなダートを調子よく走っていると、先頭を行く健ちゃんがいきなり転倒! 一見何ともない転倒だったのに、なんと、ギアチェンジができなくなってしまった。どうなっちゃったの? 仕方なく5速に入ったままで走り続ける。アップダウンが少ないので、それでも何とか走れるのでよかった。
しばらく行くと川渡りの短い渡し船があった。ただの板にエンジンを付けた簡単なシロモノ。たったの50mくらい。それでバイク1台5000GF要求される。この物価の安いギニアで、5000GF(300円)は高すぎるよ。こんな値段、地元の人は絶対払っていない。ツーリストから高いお金を取ってやろうという魂胆に違いない! せっかく良かったギニアの印象が、これで一気にダウン。ギニアよ、やっぱりおまえもか、という感じ。
がっかりしながらも、粘って1台1000GFで交渉成立しかけたところへ、日本人計4名を乗せたピカピカのトヨタ・ハイラックスが3台やってくる。こんなところで日本人に会うなんてびっくりしたけれど、
井戸を掘るNGO関係の人たちで、調査のためにギニア国内をまわっているそうだ。こちらは遊びで旅しているのに、頭が下がるなあ。井戸は、アフリカでは命をつなぐ大切なもの。私たちもあちこちの村で井戸の水をもらいながら旅しているので、その重要さは身に染みて感じる。
でも、NGOの人達はエアコンの効いた車で移動しているので、みんな服がきれいなまま。こっちは赤土のホコリにまみれて汚い格好。しかも、彼らが1台5000GF払ったために、「じゃあ、バイクは2台で5000GF」となってしまった。やぶへび!

■何でも直すギニアのメカニック(ラベ/3月2日)

5速のまま高原の街、ラベを目指す。幅の広いダートであまりアップダウンもなかったので、何とか無事に街に到着した。街に入る手前にタチの悪いポリスチェックがあり、ここでギニアの保険がない、と何クセを付けられ罰金を払え、と言われる。途中の村でもポリスチェックは多かったけれど、特に悪質ではなかったのに、街に近づくといきなり賄賂が始まるのだ。
こういうときは持久戦が一番。AIUの保険証書を見せて「日本でワールドワイドの保険に入ってきている」と頑張る。相手はとにかくギニアの保険会社のものじゃないとダメだ、と言い張るので、こっちも
同様に言い張っているうちにあきらめたのか、なんとか粘り勝ちした。さっきフェリーで一緒だった日本のNGOの車が先行していたので、「先に車で行っている日本人の友達が待っている」とウソを言ったのも効果があったのかもしれない。
それでも1時間ほどロスをしてしまい、暗くなってからラベに到着した。ラベのホテルはとてもシンプルで、ツーリストは他に誰もいない。この日は一応水も出たし電気もついたが、翌日は水も電気も一日中でなかった(乾季は電気、水事情が悪いそうだ)。
翌日、ホテルのスタッフがモトブティック(バイク修理屋)に連れて行ってくれた。ギニアでは日本製の小さなバイクがたくさん走っているし、中には日本の販売店のステッカーが貼られたままの中古も見かける。日本でお払い箱になったバイクが、アフリカのこんなところで頑張っていると思うと、感慨深いものがあるなあ。バイクだけでなく、日本製1BOXのバンも、こっちではバス代りに使われている。私が以前乗っていた4WDのライトエースも、もしかしたら世界のどこかで走っているのかも。
ところで、ジェベルはギアチェンジのシャフトが曲がっていたのが原因だったが、メカニックはそれをまっすぐに直してくれ、あっという間に修理完了。代金はオイル代を含めて30ドル程度。先進国の場合ならパーツを新品に交換し、工賃もかなり取られるだろう。アフリカは意外に修理事情はいいかもしれない。

セネガル・ガンビア 2003年1月30日~2月28日

 

■国境越えの憂鬱(2003年1月30日)

モーリタニアからセネガルの国境は「アフリカ最悪」と言われている。アフリカで一番悪いなら世界で一番タチが悪いと言ってもいい。車で旅するヨーロッパ人がたくさん来るせいもある。中古車に乗ってきて、セネガルで売る、というパターンが多いので、国境の役人にとっては車両の通関手数料などの名目でお金を徴収しやすいのだろう。
比較的マトモだと言われる「DIAMA BRIDE」の国境から出国したのだが、ここもやっぱり腐っていた。まず、カルネのスタンプに1人2000UM(1000円・領収書なし)。これは先に国境を越えたジェベルで旅する杉野さんからメールで情報をもらっていたし、係官もとても感じがよかったので、おとなしく払った。これで終わりだろう、と思ったのだが…。次の窓口では「国立公園入場料」の名目で1人500UM(250円・領収書あり)、こんどこそ終わりか、と思ったら、さらにポリスに出国スタンプをもらうのにさらに1人2000UMと言ってきた。しかもこのポリスがとっても威圧的で感じが悪く、私たちが渋っていると、他の国境へ行け! と怒りだす始末。
結局払ってしまったけれど、どうにも釈然としない。頭にくるけど、怒りの持って行き場がない。
さらにセネガル川にかかる橋の通行料が1人2500CFA(500円)、セネガル側の入国でも税関でカルネを切ってもらうのに1台2500CFA(500円・領収書あり)、ポリスに入国スタンプを押してもらうのに1人2500CFA(500円・領収書なし)取られる。それぞれ最初の向こうの言い値は15ユーロ、10ユーロ。値切れるというところが賄賂である証拠。だけど、まったく払わないで通るには相当苦労しそう。ああ、疲れる。
ここで西アフリカ共通の保険にも加入しないといけないといわれ、高いのを承知で払った。ポリス、税関、保険のおばちゃん。あとで聞いた話では、彼らはみんな兄妹で、ファミリーで牛耳っているそうだ。一般のセネガル人は貧しいのに、彼らは濡れ手に粟でがっぽり儲けている。こんなんでいいのか?
さらに休日(モーリタニアは金曜、セネガルは土・日曜)や8~12時、15~18時の時間帯以外は「時間外割増」でこれらの料金が2倍とも4倍ともなるという話だ。ヨーロッパ人らは平然と払っているけれど、この状況をなんとか変えられないのだろうか。全員でボイコットして国境に座り込みするとか、フランス政府が介入するとか。あるフランス人は税関のやりとりを録音しておいて、逆に係官を脅したとか。エライ! このままヤツラをのさばらせないためにも、これから西アフリカへ行く人は対策を考えよう。

■サンルイでビール!(サンルイ・1月30日)

セネガル川の河口にあるサンルイの町。町はずれのビーチに面したキャンプ場にたどりついた。ここまでの道もすごくて、人もたくさん歩いているのに、馬車や乗り合いのバンが狭い道を行き交っている。しかも路面は深い砂。荷物満載のバイクでトロトロ走るのはつらい。人口の少ないモーリタニアに比べると人も多くて活気がある。アラブ系の顔立ちの人はもうほとんど見かけず、黒人ばかり。本格的なブラックアフリカに入ったのだ。
喧騒のサンルイの中心部を通りすぎ、ビーチ沿いの「HOTEL DIOR」へ。ここのホテルの庭でキャンプできるというのは、他のツーリストに聞いていた。車やバイクの旅にはやっぱりキャンプ場がいい。特にブラックアフリカでは、うるさい土産モノ売りや子供たちの「カドゥ(何かくれ)!」攻撃から逃れるためにも、くつろげる空間はありがたい。街中の安宿ではこうはいかない。
テントを張って、早速ホテルのバーへかけ込んだ。ああ、やっとビールが飲める! 冷たいガゼル(ビールのブランド)がおいしい。ああ、シアワセ。国境越えの悔しさもしばし忘れて喉を潤した。

■悠々旅暮らしのドイツ人夫婦(サンルイ・1月30日)

サンルイのキャンプ場は、やっぱりオーバーランダーの車の溜まり場になっていた。私たちのテントの隣は、大きなトラックの50歳前後の犬連れドイツ人夫婦。装備もしっかりしていて典型的なドイツ人ツーリストといった風情。彼らは中央アジアへも行ったことがあるというので、話が盛り上がった。なんでもベルリンで旅行用品の店をオープンさせ、スタッフ10人もの企業にしたあと、14年後にその権利を売って旅暮らしの生活に突入。その後今に至る7年間、ドイツにときどき戻りながらアフリカを中心に、あちこち出かけているとか。
年金も払わず、自分たちの蓄えで暮らしていく、とのことだから、相当お金を持っているのだろう。日本に家も車も住民票も、仕事もないのに、2人で年間30万円もの年金を払わなくてはならない私たちとはえらい違い。それでいて、一部の長期旅行者にありがちな、世の中を捨てたような雰囲気はなく、ごく普通の人たちだ。ヨーロッパ人、特にドイツ人は旅好きで、世界中どこでも出没している。日本人も多いと言われるけれど、アフリカに限っては日本人はごく少数。そのほとんどがバックパッカーで、バイクの旅人が少数いるものの、車で旅する人はほとんどいない。
もっと気軽に自分の車で旅できるようになればいいのだけど、島国ニッポンの隣国はロシアと中国。中国を自由に走るのは今のところ無理だし、ロシアは最近ようやく行けるようになったけれど、ビザ取得や通関などの点でまだまだ問題多し、といった感じ。気軽に利用できる国際フェリーがあればいいなあ。

■ダカールで前田夫妻に会えた(ダカール・2003年2月3日~13日)

サンルイで釣りをしながら数日過ごしたあと、ダカールへ。中心部から7kmほどのビーチにある「C.V.D(Cercle Voile du Dakar)」というセーリングクラブへ直行した。ここはキャンプ場ではなく、ヨットで旅する人たちの施設だけど、広い庭でキャンプさせてくれる。この情報をくれたのが、XLR80で旅する前田隆一&直子ちゃんの夫婦。モロッコからずっとメールでやりとりしながら彼らの後を追うような形で同じルートを進んできたのだが、ここでようやく会えた。1日200kmがやっと、という80ccの2人にしばらく追いつけなかったのは、私たちの旅のペースがいかに遅いか、を物語っている。
でも、旅のペースは人それぞれだし、急ぎ足の旅では見えてこないものだってある。
直子ちゃん&りゅうさんの夫婦は、スーダン、エジプトをバックパック旅行したあと日本から送ったバイクをスペインのバルセロナで受け取り、1年間でアフリカを旅する予定。サハラ砂漠もバイクごとトラックに乗せて越えてきて、この先も無理をせずに、道の悪いところはバイクごと列車に乗せたり、ときにはバイクを置いてバックパッカーになったりするとのこと。
「私みたいにバイクのテクニックがないヤツでもアフリカをバイクで旅ができる、ということを証明できればいいなあ」と言っていたけれど、まったくその通り。バイクの旅だからといってがんばる必要はない。
そういう直子ちゃんは身長142cm、体重32kgという超ミニサイズ。ダンナのりゅうさんと親子に見られることもしばしば。
スイスで会ったXR400の岡ヤンこと岡野くんもチュニジア、アルジェリアからサハラ越えをしてダカールに来ていたのでここで合流し、さらに1ケ月の休暇で来ているバックパッカーの溝口さんもやってきて、フランス人ばかりの「C.V.D」に日本人村ができてしまった。これもメールでやりとりできる世の中だからこそ。それにしても、欧米人ライダーはほとんど見かけない。アルジェリアルートには何人かいたらしいけど、どうしてこっちには来ないのだろう。

■ダカールにはがっかり(ダカール・2月3~13日)
ダカールの町は「西アフリカきっての大都会」「西アフリカの玄関口」という触れ込みだったので、かなり期待していったのに、行ってみたらがっかり。ただ町が大きいだけだった。
なんと銀行のATMが使えない! せっかくシティバンクの口座に大金を入れてきたというのに。ビザカードのキャッシングだけはできるらしいが、これじゃダメじゃん。
しかも、数年前にはあったホンダのバイク屋もつぶれていて、XL-Sの新車とパーツがなんとか手に入る程度。中古バイクショップも1~2軒しか見かけない。パリ・ダカールラリーのゴールになっていた時代はもっとバイクショップもあって賑わっていたのかもしれないけれど、今や、もう終わってしまった町、という感じ。
観光的にも魅力がないうえ、町中に安宿が少ないのでツーリストが溜まる場所もない。ごちゃごちゃした町は人も多く、モノ売りもうるさい。いらないって言っても「How much your price?」としつこい。ただ歩いているだけなのに、「What do you want?」と声を掛けてついてくるヒマな男も多くて
歩きづらいことこの上なし。
そのうえ、一部ではツーリストプライスもまかり通っていて、同じホテルでもモーリタニア人だと1部屋2000CFA(400円)なのに、日本人ツーリストに聞いたら12000CFA(2400円)払っているという。ひどいヤツになると「ツーリストなんだから高い値段を出すのはあたりまえだ」と堂々と言ってはばからない。「何百年もヨーロッパ人に搾取され続けたから、その仕返しをしているんだ」という意見も多い。それじゃ、日本人はとばっちりを受けているのか?
そんなわけで「西アフリカの大都会」ダカールはイマイチ好きになれなかった。

■ガンビアでポリスに粘り勝ち(国境・2月15日)

やや面倒なガンビアの入国手続きを完了して走り始めると、すぐにポリスチェックがあった。健ちゃんが勘違いして止まらずに通りすぎ、私が止まったので戻ってきたけれど、それがポリスにつけ込まれる原因となった。つまり、ちゃんとその場で止まった私は問題ないけれど、無視して通りすぎた健ちゃんは「プロブレム」だそうだ。カルネ通関ではなく、一時輸入の書類の裏に、ここのポリスチェックのサインをもらわなければいけないから、外国人の車は止まる必要があるとのことだ。  なんでもこのことを上司に報告すれば、裁判所へ行って罰金を払う羽目になるらしい。月曜日までバイクを置いて2日も待たなければならないし、罰金は50000CFA(10000円)もかかるぞ、という。さらに「私たちはおまえたちを助けたい。今、10000CFA(2000円)  払えば、免れるぞ」というのだ。まったくバカげている。  これは当然賄賂なので、払いたくない。こうなったら粘り作戦。まずは下手に出て許しを請うことから初め、いろいろ世間話したり、仲良くなるのがいい。万が一怒らせて険悪なムードになったら相手は強硬になるだけなので、このあたりは慎重にコトを運ばなければならない。 2人ともサングラスで一見強面だけど、幸い、そんなに悪い人ではなさそう。イスも勧めてくれて、お互い和やかなムード。それでもお金の話になると10000CFAと言って譲らない。そうなったらまた話をそらして友好ムードに戻す。3時間もそうこうしているうちに、なんとか無罪放免となった。

■快適なスクタ・キャンピングにはまる(スクタ・2月15日~25日)  ポリスからようやく釈放されたあと、ガンビア川のフェリーを渡り(人間とバイクで10D・50円)、首都バンジュル郊外のキャンプ場を目指した。ダカールで別れた直子ちゃん&りゅうさんも泊まってるはずだし、ごちゃごちゃした街中のホテルでは何かと落ち着かない。特にブラックアフリカではみんなツーリストに話しかけてくるので、いちいち相手になると疲れる。その点、キャンプ場ならしっかり管理されておて、門番もいるから宿泊者以外には入ってこないからそういう煩わしさを回避できるし、バイクも安心して止められる。  しかも、ここ、スクタ・キャンピングは今だかつてない、旅人の気持ちをわかった素晴らしい設備。テントのほか、バンガローも安く、レストラン、バー、ミニショップ、キッチンも揃っている。何と言ってもトイレが清潔でびっくり。便座もトイレットペーパーもあるし、絵までかかっている。いつもきれいに掃除されていて、さすがドイツ人経営だけある。そのせいもあって、客もドイツ人が多い。ほかにイギリス人やスペイン人もいるのに、セネガルまであれだけいたフランス人が1組も来ていない。やっぱり言葉が通じないからか?   ツーリストだけじゃなく、ガンビアに1年以上も住みついているというドイツ人のおじさんも毎日遊びにきていたし、ガンビアで車の売買の商売や観光業を営むドイツ人は多い。イギリスからのツアーも多いようだし、同じ西アフリカの国でも、ちゃんとツーリストの住み分けがあって興味深い。  ドイツ人宿の様相もある、ここスクタキャンピングで、直子ちゃん、りゅうさんのほか、ダカールでも一緒だったバックパッカーの溝口さんも翌日やってきて、またまた日本人村ができあがった。  ガンビアは釣りにもバッチリの環境だし、英語も通じるし、キャンプ場は居心地いいし、物価も安い。人々もセネガルなどよりすれてない。フランス語とうるさいモノ売りに悩まされたので、ここに来て長居してしまう人は多いかも。

■渡辺くんがやってきた(スクタ・2月20日)

直子ちゃん&りゅうさんが出発する日の朝、ボロボロの服を来た日本人がやってきた。やっぱりバイクでアフリカ一周中の渡辺くん。大阪の大学を休学し、XT400で南アフリカからスーダン・チャドを越えて西アフリカまでやってきたところでバイクが壊れ、直しながら来たものの、セネガルに入ったところで再び壊れてしまったという。直してもお金も時間もかかるし、大学に戻るのもタイムリミット。これ以上直すのをあきらめてガンビアでバイクを何とかしようと動かないバイクを車で運んできたのだった。今はバンジュルの街中の安ホテルに泊まっている。  幸い、ここのキャンプ場のオーナーのジョーは車の売買にも詳しいので、渡辺くんのバイクも引きとってくれることになった。日本からカルネを作って持ってきているけれど、ガンビアではカルネ通関しなかったし、税関の書類があれば問題ないらしい。たしかに壊れてしまって修理に多額の費用がかかる古いバイクを、高いお金を出して日本まで送り返すのは得策ではない。それに、ここで引きとってもらえれば、ただの鉄クズにはならず、もしかして走るように直す人がいるかもしれない。  ところで、この渡辺くん、とっても汚い。頭はボサボサ、ズボンもシャツも汚れまくっている。「エンジンからオイルが吹き出ていて汚れるんです」といい訳していたが、まったく洗濯をしないらしい。ズボンも1ケ月以上洗ってないので、真っ黒け。「アルジェリアで入国拒否された」とのことだけど、パスポートの表紙の色が5年有効の紺(10年モノは赤)で、「JAPAN」の文字が摺れて消えていただけが理由じゃないと思う。 「汚い格好をすることは、今の若者の流行りなんじゃないか」という意見もあったけど、本当? 私たちが旅をしている間に、日本も変わったのだろうか? そんなことないよねえ。

■ジャンジャンブレでの~んびり(ジョージタウン・2月25日~28日)

10日も滞在したスクタをあとに、ガンビア川沿いに東へ進む。途中のソマという町までの道路は舗装とダートが交互で舗装路も穴ボコだらけだったけど、ソマから東は交通量が少ないせいか、舗装の痛みも少なく、いたって快適だった。途中、何ヶ所もポリスチェックがあるけれど、どこも感じがよく、日本から来た、というと話がはずんだ。フランス語と違って英語が通じるからコミュニケーションもとりやすい。  でも、彼らの本当の言葉は英語ではなく、各部族の言葉なので、挨拶だけでも覚えておくとウケがいい。特に「ギャラマ(ありがとう)」は通用度が高く、それだけでも相手の態度が違ってくる。私たちが目指すジョージタウンも英語名で、本当は「ジャンジャンブレ」という名前らしい。  ジャンジャンブレは予想していたよりずっと小さな町で、メインストリートも未舗装。何もないといえば何もないけれど、ガンビア川に面していてゆっくり過ごすにはいいところ。人も親切で居心地はいい。 健ちゃんがちょっと調子を崩したこともあり、何もせずに3泊も滞在した。  そういえば、ガンビアではなぜか住所交換が流行っていて、私たちツーリストの住所を聞きたがる。彼らもあらかじめ紙切れに書いた自分の住所をくれる。走っている途中でも、川で泳いでいた男の子が裸のままで「I need your address!」と叫びながら追いかけてきたことがあったけれど、どうして そんなに住所を知りたがるの?

モーリタニア 2003年1月15日~1月30日

■わずらわしい国境越え(1月15日)

モロッコの国境を越えると、いきなりダートになった。枝道も多く迷ってしまいそうなのに標識もなく、実際、道を間違えて国境を通らなかった人もいるくらいだ。  路面もひどくて砂も深く、2WDの車があちこちでスタックしていた。そんなダートを7km走ると掘っ立て小屋があって、そこがモーリタニアの出入国管理事務所だった。いよいよ悪名高い国境越えが始まるのだ。  小屋の前にはフランス人の車がたくさん並んでいる。彼らにならってまずポリスへ。パスポートに入国スタンプを押してくれたあと、1人5ユーロ(約600円)ずつ要求される。レシートをくれたので正式なお金なのかと思って払ったけれど、あとで聞いたら払わなかったという人もいる。よくわからず。  次に税関でカルネを切ってもらうが、今度は1台10ユーロ(約1200円)だという。ちょっと高圧的な態度。カルネなので本来はお金がかからないはず。フランス人などは大半が売る目的で車を運んでいるので、カルネを使わず、一時輸入の書類だけで通関している。それで同じ金額なら、いったいカルネの意味って何? 腑に落ちないので、20ユーロのところを健ちゃんが15ユーロに無理やり値切ったら、相手が逆キレしてしまい、なんとカルネのスタンプを押してくれなかった(あとで町の税関で押してもらったが)。まったく腐った役人が横行していて困ったものだ。一緒に並んでいるフランス人たちも、仕方がないといった顔付き。中には健ちゃんに向かって「アフリカのルールを勉強しなくちゃいけない」とのたまい、役人に加勢するフランス野郎もいる。ルールって何? 賄賂を払って一部の役人を儲けさせることか? だいたいにおいて、役人の腐敗ぶりはフランスの植民地だった国が特別ひどい。自分たちの国が搾取し続けた結果がこうなったのだから、オマエがどうにかしろ! といいたかったけれど、ぐっと我慢。怒ったら負けだ。  それにしても、国境越えはいつも憂鬱。この先もますますひどいのだろうか。いやだなあ。  ここからヌアディブの町までの道もひどく、ときどき砂も深い。荷物満載のバイクでは転ばないように走るだけで精一杯。途中で道に迷ったりしたこともあり、たった40kmの距離に2時間以上もかかってヌアディブに到着した。あああぁぁ、疲れる。

■陸の孤島、ヌアディブ(ヌアディブ・1月15~20日)

ヌアディブの町では「キャンピング・アバ」へ直行した。キャンピングと言ってもテントだけでなく部屋にも泊まれる。他にも同様のキャンピングは3ケ所あり、どこも砂漠越えのオーバーランダーが何組か泊まっていた。   大西洋に面したこの町は人口4万5000、モーリタニア第2の都市なのに、どこの町とも舗装路で結ばれていない陸の孤島。唯一、内陸の鉱山の町、ズエラートから鉄鉱石を運ぶための鉄道が通っていて、この鉄道沿いにもピストがあるが、砂が深く4駆でもかなり苦しいという。その鉄道に車ごと乗せることもできるとのことで、イギリス人夫婦の車や、スイス人&フランス人ライダーが鉄道駅で待っていたが、車を乗せる貨車は数が限られているし、地元のトラックが優先でツーリストは後回しにされるそうだ。1週間待って、まだ乗れない、とイギリス人夫婦はぼやいていた。2人のライダーはというと、それぞれBMWの800ccと1000ccに43㍑ものビッグタンクにアルミのサイドケースを付けていて、国境からヌアディブまでのピストで何度も転倒したので、「バイクが重すぎる。絶対、砂漠は走らない」と言っている。ヨーロッパならいざ知らず、道の悪いアフリカではテクニックや体格に対してバイクが大きすぎるのも考えモノだ。(結局彼らは列車に乗れず、バイクごとトラックに乗せて砂漠を渡った)

■砂漠越えのコンボイ結成(ヌアディブ・1月19日)

ヌアディブから首都ヌアクショットまでの約500kmが砂漠越えのピストになる。途中に何も目印がないので、ガイドを雇うか、GPSを使って進むことになる。私たちはGPSを持っていないし、バイクだけで越えるのはリスクも高いので、一緒に砂漠を越える車を探すことにした。こちらは荷物を運んでもらえるし、彼らにとってはガイド代が安くなるのと、スタックしたときに車を押す人員確保というメリットがある。  とはいえ、誰でもいいというものではなく、車選びは慎重に行うべし。まず、2駆だけのグループでは頻繁にスタックするのが目に見えている。あまりオンボロの車も途中で壊れる可能性が高い。商売人の車だとスピードが早く、バイクではついて行くのが大変。また車の台数に比べて人数が少なすぎるのも押すことを考えるとつらそう。フランス語しか話せない人たちだとコミュニケーションも大変。  そんなわけで、他のキャンピングもいろいろ見て回った結果、四駆2台、二駆1台(さらに彼らはXLR400もトラックに積んできていた)という、9人のフランス人グループと一緒になった。彼らは10代から50代、女性2人を含む混成グループで、旅好きでカナダで働いたことのある看護婦さんのパスカル、無農薬パン作りをしていて、イスラエルのキブツ(集団農場)にいた経験もあるザビエ、ザビエの息子で高校性のコランはじめ、英語を話せる人も多いし、気さくで気のよさそうな人ばかり。みんな私たちを気軽に受け入れてくれた。  ガイドも決まって、さあ、いよいよ砂漠越えだ。

■サハラは楽しい!(ヌアディブ→ヌアクショット・1月20~23日)

ところで、西サハラルートを旅するのは旧宗主国のフランス人が圧倒的に多く、ほかにドイツ人、スイス人などだが、車で旅をするのが目的の人は四駆の車に装備もしっかり揃え、GPSはもちろん、ノートパソコンにデータをすべて入れたり、万全の体制で旅をしている。  一方、車を売る目的の人はたいていボロい車に乗ってきて、サハラを越えたあと、ヌアクショットやセネガル、ガンビアまで行って車を売るという人が多い。だからGPSも持っていないし、ロクなスペアパーツも工具も持っていなかったりする。  パスカルたちのグループもセネガルで車を売る予定で、どの車もあまり程度がいいとはいえなかったけれど、幸い故障もなく、2駆の1BOXも意外にがんばり、スタックの回数も少なかった。バイクのほうも荷物がないので一度もスタックすることなく、砂の海を自由自在に走れたし、XLR400のセバスチャンも一緒になって、楽しいサハラ越えだった。  急いで行けば1泊2日の行程を、私たちは海で泳いだり、釣りをしたり、パラグライダーをしたり、と砂漠をゆっくり楽しみながら進み、4日目の昼に無事ヌアクショットの町にたどりついた。  ヌアクショットとはハッサニア・アラビック(モーリタニアの言葉)で「風の町」というそうだ。その通り、毎日強い風が吹いている。中庭のある宿で数日ぶりのシャワーを浴び、ゆっくり過ごす。その夜は、無事サハラ越えをしたお祝いという名目で近くにあった中級ホテルのバーへ行き、1杯1000UM(500円)もするビールを飲んだ。久しぶりのビールが乾いた体に染みわたる。良く冷えていたし、500円の価値は充分にあった。

 

 

 

 

■砂漠のオアシス・シンゲッティを目指す(シンゲッティ・1月24~27日)

翌日、このままセネガルへ向かうというフランス人の彼らと別れ、サハラとの名残りが惜しい私たちはシンゲッティまで往復することにした。シンゲッティはヌアクショットの北東500km、サハラ砂漠の真ん中にあるオアシスの町で、古くからキャラバンの交易都市として栄えたイスラム第7の聖地でもある。  アタールまでの450kmは完璧な舗装だというので、安心して出かけていったのだが、途中の町のGSでガソリンが品切れしていた。ガガーン! こういう国だから明日になれば入ってくるという保証もない。どうしようか悩んでいると、「あそこなら売っているかも」と片言の英語を話せる少年が案内してくれた。そこは民家の中にある小さな商店だった。こんなところに本当に売っているのか? とびっくり。ちゃんと置いてあったが、1㍑200UMと1.5倍もする。でも買うしかない。まいったなあ。  その日はアクジュジュトの小さな宿に泊まり、翌日一路シンゲッティへ。ところが、1日中ひどい砂嵐に見舞われて疲れたこと疲れたこと。これが舗装走路じゃなく、砂漠のピストだったら大変だった。

■シンゲッティのアブドゥくん(シンゲッティ・1月25~27日)

シンゲッティでは「オーベルジュ・ザルガ」に泊まった。1泊1人500UM(250円)という安さに健ちゃんがつられて決めた小さな宿だけど、ここがなかなか良かった。宿の設備がよいわけではなく、オーナーのアブドゥくんが、である。彼は若干21歳。シンゲッティのモスクの管理人の息子で、ラクダツアーなどもアレンジしているというから、シンゲッティでも実力者一族なのかもしれない。  英語はほとんど通じなかったけれど、片言のフランス語だけでもコミュニケーションはとれる。お茶をごちそうになったり、食事を作ってくれて一緒に食べたり、アブドゥくんは友人でも招いているかのように接してくれた。最初はわずらわしく感じることもあったけれど、お金だけが目的ではないアブドゥくんのホスピタリティに感動した。  夜はアブドゥくんの友達も一緒に歌合戦となり、健ちゃんがケーナを披露したり、モーリタニアの歌「クンババイバイ」を教えてもらったり。  シンゲッティにはここの他に数軒小さな宿があるが、どこもほとんど客が入っていなかった。モーリタニアではけっこう知られた観光地だし、ユネスコの世界文化遺産にもなっているのに、シンゲッティに泊まるツーリストはそれほど多くはない。80kmほど離れたアタールの町から日帰りツアーで来るパターンが多いようだ。  たしかに、ここには何もない。旧オアシスも30分あれば見ることができるし、食堂もないし、インターネットカフェもない。一通り見てしまえば何もすることはない。でも、こんな砂漠のオアシスで一夜を過ごしてみると、砂漠での生活ぶりもわかっておもしろいと思う。  シンゲッティのさらに奥にもオワダンなど小さなオアシスの町が続いていて、キャメルサファリなどもできるので、この一帯だけ訪れる人もいる。モーリタニアでは砂漠のオアシスが本当にモーリタニアらしい見どころなんだろう。  モーリタニア人はあまり笑わないし、モーリタニアは好きじゃない、みんなお金目的だ、というツーリストが多かった。サハラ越えルート上のヌアディブ、ヌアクショットだけしか泊まらなかったら、そう感じるかもしれないけれど、私たちの印象は違う。少し話せば打ちとけてくれるし、お金ではない付きあいができる気がする。少なくとも、シンゲッティで会った人々は違っていた。  モーリタニアの魅力はサハラ越えルートだけではない。オアシスのほうまで足を伸ばせば、きっともっと素敵な砂漠の民に出会える。

モロッコ 2002年12月23日~2003年1月15日


■メディナを歩く(フェズ・12月24~26日)

スペインのアルヘシラスからジブラルタル海峡を渡ってセウタへ。ここから陸路でモロッコに入国した。モロッコ北部は冬が雨季のため、赤茶けた風景の夏と違って、なだらかな丘陵地帯は一面の緑の絨毯。気候も温暖なせいか冬は野菜の収穫期でもあるようで、路上ではトマトやジャガイモがたくさん売られていた。
タンジェに一泊したあと、モロッコ随一の観光地、フェズへ向かう。モロッコの町にはメディナと呼ばれる旧市街があり、狭い道が迷路状に入り組んでいる。特にフェズのメディナは規模が大きく、ユネスコの世界遺産にも指定されている。
3年前に私が一人でこの町にきたときは、自称ガイドの売り込みやナンパもどきが多かったけれど、モロッコがマトモになったのか、男連れのせいか、はたまた年増になったせいか、今回はそうでもない。男連れのせいだろう、きっと。
いずれにしてもガイドに連れられて歩くとロクなことはない。たいていはなじみの土産モノ屋に連れて行かれるし、「トモダチだから(いつトモダチになった!)、お金はいらない」と言っておいて、最後には「何かくれ」と言うパターンだ。迷路のようなメディナは迷いながら歩くのが楽しいのだし、いつかはどこかに出られるのだから、ガイドなんて不要なのだ。
フェズのメディナは観光地になっているとはいえ、実際は庶民の市場であり、生活の場。私たちも迷いながらゆっくり時間をかけて楽しんだ。

■カスバ街道(エルラシディア・12月26日)

フェズで2泊したあと、アトラス山脈を越えて南下する。緑豊かな風景からだんだんと乾燥した茶色い大地に変わり、峠を越えるとカスバ街道が始まった。カスバというのは、日干しレンガでできた昔のお城で、カスバの回りにはクサルという町も造られている。アトラス山脈の南には200km以上に渡ってこのカスバの町が続いているので、カスバ街道と呼ばれているのだ。
その起点となるエル・ラシディアという町に着く。町中でホテルを探していると、片言の英語を話す若者が「こっちだ」と道案内をしてくれた。たいていこういう場合、ぼられたりチップを要求されるので警戒したけれど、彼が案内してくれたホテルは1泊80DH(960円)と安いし、バイクは1階のカフェに入れてくれるという。広場の目の前でなかなかGOODなところ。案内してくれたモハメッドくんはここで働いている、ということで、チップを要求されることもなかった。ただの親切な人だったのだ。

■インテリジェンスなモハメッドくん(ワルザザート・12月27日)

カスバ街道を東から西へ。いくつものカスバの町を通り過ぎ、300kmほどでワルザザートに到着。ここも3年前に来たことのある町で、そのときに泊まったホテルに顔を出してみると、若いスタッフが欧米人ツーリスト相手にツアーの案内をしていた。彼はここのホテルの息子で、モハメッド・アリくん(モロッコにはたくさんの「モハメッド」くんがいる。現国王もモハメッド)。3年前はカジュアルな服装でまだ学生風だったのに、今やスーツを着こなし、立派なビジネスマンになっていた。向こうも私を覚えてくれていて、感激の再会となった。さすがに、バイクでやってくる日本人の女は他にはいなかったようだ(3年前はアプリリア50でツーリングしていた)。
モハメッドくんは毎年2ケ月程度ヨーロッパへ旅行するとかで話題も豊富で、なかなかインテリジェンス。3年前にも彼といろいろ話をした覚えがある。
夜はモハメッドくんと彼の友達3人と一緒にレストランでコーヒーをごちそうになった。みんなインテリっぽいし、町で声をかけてくるような輩とはちょっと違う感じ。彼らのような若者がいるなら、モロッコの将来はけっこう明るい。

■退屈な停滞の日々(アガディール・2003年1月2~8日)

ワルザザートから再びアトラスを越え、マラケシュに滞在したあと、海辺のリゾート、アガディールへ。
ここのキャンプ場で新年を迎えたあと、1月1日、西サハラへ向かって走り出す。町と町の間隔が100km、150kmとなり、あたり一帯、砂漠の風景になってくる。いよいよ砂漠だなあ、と感慨に浸っていると、ガガーン! またしても健ちゃんのジェベルのリアスポーク折れが発覚。
元旦からトラブルだなんてまったくついていない。ヨーロッパではずいぶん悩まされたので、スペインで全部取り替えたというのに。やっぱりオリジナルのものでないとダメなのか? この先、サハラ砂漠越えを控えているので、ここでしっかり直しておきたい。
幸い、マドリードの「ハッピーライダー」にオリジナルのスポークを1セット置いてきたので、それを送ってもらうことにした。受取り先は安心できるところじゃないとまずい。となると中途半端な町では危ない。そんなわけで、結局アガディールのキャンプ場まで200km、同じ道を戻ることにした。まだアフリカの旅が始まったばかりだというのに幸先悪い。でも、まあ、これも旅なんだから仕方がないか。
ところで、アガディールのキャンプ場にはヨーロッパから避寒で来ているシルバー世代のキャンピングカーがたくさん溜まっている。フランス人、イタリア人、ドイツ人、イギリス人とそれぞれコミュニティがあるようだ。みんな何ヶ月もここで暮らしていて、ビーチを散歩したり、読書をしたり、日がな1日のんびり過ごしている。日本人としては、かなり退屈じゃないか、と思うのだけど、日本のお年寄りに比べればアクティブな生活といえるのかも。
そんなシルバー村で1週間過ごすうちに無事にスポークも届き、1月10日、やっと旅を再スタート。さあ、行くぞー!

 

 

■最果ての町ダクラ(ダクラ・1月12~14日)

モロッコの南半分は西サハラ。この地域はモーリタニアとの間で領有権をめぐる争いが続いていて、現在は一応モロッコの統治下にある。とはいえ、まだ帰属問題が解決したわけではない。国境付近には多くの地雷が埋められているとのことで、2年前まではここ、ダクラからモロッコ軍の先導のもと、コンボイを組んで国境まで移動しなければならなかった。そんなわけで以前はダクラのキャンプ場にはたくさんのオーバーランダーが集まってきていたそうだが、国境まで自由に行けるようになった現在、往復80kmほど寄り道になるダクラに泊まらなくても直接モーリタニアへ行ってしまう車も多いため、以前ほど溜まっていない。寄ってもせいぜい1泊で出て行ってしまうので、もはや砂漠越えの基地ではなくなっている。実際、ここからモーリタニア国境までの500kmはきれいな舗装路で、途中に3ケ所ほどガソリンスタンドもあるから問題はない。国境からモーリタニア最初の町、ヌアディブまでがサハラ越えでは最初の難所ということになっている。
私たちはダクラで2泊し、砂漠越えのための予備のガソリンタンクや食料を準備し、国境へ向かった。

スペイン・ポルトガル 2002年9月19日~10月25日、12月14日~12月23日

■ピレネーを越える

フランスからピレネー山中にある免税の国アンドラを通ってスペインへ入国した。ピレネー山脈はアルプスに比べて山容がなだらか。標高も3000m級が最高なので9月の後半でも雪はなく、峠越えの道もそれほど寒くはない。  かつては「ピレネーを越えるとアフリカ」と言われたように、スペインは地理的、文化的にもアラブ世界に近く、加えてラテンの血も混じった不思議なところ。私のお気に入りの国なのである。  それにスペイン語は南米経験者の私たちにとって馴染みがあるので安心。とはいえ、かなり忘れかけているし、ちゃんと勉強していたわけではないので中途半端。スペイン語を話しているつもりがロシア語になったりしてしまう。でも、「少しわかる」というのは「まったくわからない」のとは全然違うのだ。  それにスペインはこれまで取材で2度、3年前には50ccでツーリングもしていてトータル3ヶ月ほど滞在したことのある馴染みの国。初めて行くときのようなワクワク感はないけれど、勝手知ったるナントカで、ほっとできる国でもある。

■ガウディのバルセロナ(バルセロナ/9月20~22日)

バルセロナといえばガウディ。市内にはいくつかガウディの建築物があるけれど、どれも曲線の多い独特のデザイン。その代表的なものがサグラダ・ファミリアだ。スペインのガイドブックには必ず登場する、トウモロコシ状の尖塔が特徴的な教会である。1892年に着工されて100年以上経つが、未だに建築途中で、いつ完成するかわからないらしい。それでも12年前に初めて見たときよりはずっと進んでいたし、やっぱりガウディは天才だなあ、と思わせるものがある。健ちゃんも「ヨーロッパで見た建築で一番感動した」と言っていた。まあ、これを見るためにバルセロナに来た、と言ってもいいくらい。  バルセロナはなぜかとっても込んでいた。バカンスシーズンはとっくに終わっているというのに、市内は観光客でいっぱい。なんでも2002年は「ガウディ生誕150年記念」だとか。ホテルもほとんど満室で「Complet」の看板が下がっている。ツーリストインフォメーションへ行ってみると、「ホテルは最低でも70ユーロ」という。たまにはシティライフも楽しみたいのに、やっぱりキャンプ場に泊まることになってしまった。  まあ、それはどうでもいいけど、「生誕150年」なんてよく考えると大したことがないのでは? はっきり言って、バルセロナの一番の売り物はガウディなので、「没後●年記念」「サグラダ・ファミリア建築着工●記念」などもあるんだろうなあ、きっと。

■ぼったくりバーに頭にきたのだ(バルセロナ/9月21日)

街歩きな嫌いな健ちゃんも、サグラダ・ファミリアだけは見に行った。午前中はキャンプ場でダラダラ過ごし、バスに乗って街へ繰り出す。久しぶりの都会はツーリストだらけ。サグラダ・ファミリアも予想通り、入るのにすごい行列だったので、「まあ、とりあえずビールでも一杯」、と昼間から斜め前のバルに入る。そこらへんが不真面目な長期旅行者らしい行動である。  ところで、スペインでは「バル」または「セルベセリア」という気軽な飲み屋がたくさんあって、カウンターで軽く一杯、というのがスペイン流。同じ料理でも値段が違う。それを知らない観光客はみんなテラス席で優雅に食事をしている。  私たちはカウンターに座り、スペイン初心者に見られないように、ちゃんとスペイン語で注文した。  ところが、ビールを頼んだら勝手にローカルビールの倍もするバドワイザーの瓶を出してくるし、タパス(小皿)で頼んだら大皿に盛ってきた。日本人だからと甘く見られたか? 結局ビール2本とイカのフライで11ユーロ(1300円くらい)も取られてしまった。スペインってこんなだったっけ?

■ポルトガルは物価が高いぞ!(ポルト 9月30日~10月2日)

スペインのローカルな町から短いフェリーでポルトガルに入国。当然入国審査も何もない。  入国早々、ちょっとショックなことがあった。ガソリンの値段が0.1ユーロも高いのだ。当然ポルトガルのほうが安いと思っていたからタンクを空にしていたのだ。  スーパーに寄って食料品を見ると、やっぱりスペインよりも高い。どうして? GDPはスペインより低いのに物価は高いなんて、困ったものだ。ツーリストならまだいいけれど、住むには大変。  まずは港町ポルトへ向かう。アズレージョ(青い装飾タイル)の建物があちこちにあり、やっぱりスペインとは違う国なんだなあ、という印象がする。  セントロまで行き、駐車スペースのある安宿を探しているうちに道に迷ってしまった。ここは一方通行が多いし、坂ばかりで方向感覚が狂ってしまうのだ。ウロウロして何の収穫もないうちに、空が真っ黒な雲で覆われ、雨が降ってきてしまった。雨はなかなか止まず、雷まで鳴っている。北欧以来の本格的な雨だ。そろそろヨーロッパも冬に入る。町には冬の風物詩、焼き栗の屋台も出現しはじめた。  しばらく雨やどりして小降りになったところで出発した。なんだかもう安宿を探す気力は失せ、郊外のユースホステルに泊まることにした。ここは清潔でいいところなんだけど、街から遠い。それにドミトリーで1人12.5ユーロ、ツインだと35ユーロするから決して安くはない。街中のペンションならツインで20ユーロなのに。  ところでポルトといえば、ポートワインの産地。街にはたくさんワイナリーが並ぶ地区があり、ツーリストで賑わっている。ポートワインは甘口ながらも甘過ぎず深みがあり、若いワインにはない熟成された味。ただし値段も張るので試飲だけで我慢しておいた。普通のワインは150円くらいなのが1本1000円もするのだ。長旅は人間をケチにするのだろうか?

■ユーラシア大陸横断達成!(10月3日~4日)

ポルトを出てオビドスに寄り、10月3日夕方、やっとユーラシア大陸最西端のロカ岬に到着した。 断崖絶壁が続く景勝地でもあり、やっぱりツーリストが多い。  岬には「ここに地果て、海はじまる」という、有名な詩人の言葉が刻まれたモニュメントがあり、そこで記念写真を撮った。 「ヤッタ、ヤッタゾ~!」  ノールカップに到着したときのような達成感も感動もないのだけど、一応、これでユーラシア大陸横断を果たしたことになるので、とりあえずポーズを決めた。  ロシアのウラジオストックからここまで、実に1年2ヶ月余り、46200kmもかかっている。ツアーで走ったカソリさんたちは50日間、15000kmだから距離は3倍以上、時間は10倍もかかったことになる。いったい何してたの? とカソリックな方々は思うだろうけれど、私たちはロシアだけでなく中央アジアやコーカサスの国々へも行っているし、ノールカップへも足を伸ばしている。  お金はないけれど時間はあるので、それぞれの国をじっくり見て回っていたのである。というか、実際は単にのんびりしていただけ。キャンプしても昼間でラジオの日本語放送を聞いてダラダラ過ごし、70~80km/時でゆっくり走り、あちこち観光したりするから、時間がかかる。しかも夕方にはスーパーマーケットでいろいろ物色しながらの買い物タイム。ときには1時間以上も費やすこともある。健ちゃんが食事にこだわるタイプなので、材料選びにうるさいのだ。  その分、私たちの食事は毎回充実していた。ビーフシチューやクリームシチューもルーから作るし、牛丼や肉じゃがも作ってくれる。肉も500gくらいのパックを買って残せないから1度に食べるので、ボリュームもすごい。  そんな豪華な食事をしていたために、この1年余りで私はずいぶんと肥えてしまった。運動もあまりしていないし、旅の間、一度も体重計に乗っていない。乗るのが恐い。日本に一時帰国するまでに少しダイエットしないと、と思いつつも今日もしっかり食べてしまうのだった。あ~あ。

■ライダーの味方、キャンプ場(リスボン 10月3日~5日)

ポルトではあきらめたけど、リスボンでは絶対街中の宿に泊まるぞ! と固い決意のもとに、明るいうちに街に到着して安宿探しに奔走した。ポルトと違ってツーリストインフォメーションがそっけないし、ガイドブックの類もないから一軒一軒、自分で聞いてみるしかない。  街を歩いて聞いてみる。ペンションならツイン1泊25ユーロ(3000円くらい)で泊まれるけれど、そういう宿は決まって建物の2階以上にあった。つまり駐車場がない。公共の駐車場をあたると、立派な地下駐車場しか見当たらず、24時間で30ユーロ以上。しかもバイクも車も同じ値段という。これじゃ人間様よりずっと高いじゃないか! おかしいぞ!   ああ、もういいや。またしても郊外のキャンプ場へ行くことになった。あ~あ、またテントかあ。  そんな感じで落胆して行ったわりに、ここのキャンプ場はかなりGOODだったので気を取りなおす。テントサイトは広い木立の中の芝生で、敷地内にはカフェレストラン、バル、ミニスーパーまである。すぐそばには大きなショッピングセンターもあって、買い物にも便利。町まで遠いけれどバスで20分くらいだし、カナダ人ライダーなんかもいて話し相手もできて退屈しない。  いつでもどこでも、キャンプ場は私たちライダーの味方なのだった。ごめんね、浮気しようとして。

■やっぱりバルは最高!(10月9日~11日)

スペイン南部、アンダルシア地方はスペイン観光のハイライト。地理的にアフリカに近いため、アラブ統治時代の本拠地でもあったので、あちこちにアラブの影響が色濃く残っている。経済的には遅れているアンダルシアだけど、そうしたアラブの置き土産が現在では観光の目玉になっているのだから皮肉というか、よかったというか。  中でも「カルメン」の舞台であり闘牛やフラメンコの本場セビリア、メスキータのあるコルドバ、アルハンブラ宮殿のグラナダの3都市は絶対はずせないポイント。観光ツアーには必ずこの3つが入っている。そのほかにも白い家々が並ぶミハス、高級リゾートのコスタ・デル・ソルなどなど、アンダルシア地方には魅力的な観光地が目白押し。一面のオリーブ畑、夏には一面のひまわりも見られる。ほとんどの人が思い描く、イメージ通りのスペインがここアンダルシアにはあるのだ。  もちろん、そうした観光地だけではなく、アンダルシアの「バル」も必ず行くべし。というより、バルへ行かなくちゃスペインを旅したとはいえないくらい、スペインでは一般的なものなのである。  「バル」はカウンター主体の気軽な居酒屋で、スペインでは喫茶店感覚でみんな利用している。ビールやワインなどは1杯100円~、またタパスという小皿のつまみが頼めて、1皿1ユーロ(120円)くらいからと安い。軽い食事なら2、3皿頼めば充分だし、種類もたくさんあるし、店の人とも隣の人とも話しやすいから楽しい。  アンダルシアは特にバルが多くて、ビール1杯でつまみも付けてくれたりすることもしばしば。バルセロナではバルに失敗したけれど、ここではどこもはずれがないし、ボるようなこともないので安心だ。物価も安いし、ラテン的なノリもあって、親しみやすい。やっぱりアンダルシア、最高!

■初めてのシンガポール人ツーリスト

セビリアでは「ボデガ・デル・サンタクルス」というバルが私たちのお気に入りで、2泊の滞在中、3回も通った。ここでシンガポール人ツーリストのドミニクさんと夜遅くまで盛りあがった。カテドラルに近いこのバルはタパスの種類も多くてビールも1杯0.9ユーロと安いから、人気があっていつも込んでいる。  ドミニクさんは若く見えるけど、当年とって40歳、妻も子も置いての1ヶ月の自由旅行で今回はモロッコまで足を伸ばす予定。シンガポールでも1ヶ月の休暇はなかなか取れないそうだが、会社員でありながら彼はこれまでにも長期休暇をがんばって取得し、あちこち旅したとか。今まで同じシンガポール人の旅行者に会ったのはたったの2回。私もまだシンガポール人のバックパッカーと話すのは初めて。  最近は韓国をはじめ、台湾、香港などアジアのバックパッカーが増えているけれど、まだまだシンガポール人は珍しい。もちろん、国の人口が少ないせいもある。中国系の彼はいつも日本人と思われてしまうそうだ。私たちアジア人はだいたい自分の国の人を見分けられるけれど、欧米人から見ると同じに見えるのは仕方がない。  彼は私たちのバイクに興味を持ち、自分もそのうちバイクで旅したい! と言っていたので、近いうちにシンガポール初? の海外ツーリングライダーが登場するかもしれない。

■男の汗にはまいったど(セビリア 10月9日)

さて、フラメンコの本場でもあるセビリアでは、初日に早速フラメンコを見に行った。入り組んだ狭い路地が続くサンタクルス街にある有名なタブラオ(フラメンコを見せてくれる場所)は、200人くらいの観光客で満杯。ドリンク付きで1人27ユーロだから、1度のショーでかなりの儲けだよなあ。貧乏旅行者はどうでもいい計算をしてしまう。  フラメンコはもともとジプシーの踊りで、踊りとギター、歌の3つから成っている。たいてい踊りは華やかな衣装の女性、ギターは比較的若手でスリムな男性、カンテは貫禄のある男性という組み合わせになっている。独特な旋律のメロディを奏でるギターをバックにカンテの男性が情感たっぷりに歌い、それに合わせて眉に皺を寄せて悲痛な表情の女性ダンサーが踊るのが定番。ところが、踊り手が男性の場面もあり、男性ダンサーの踊りは女性に比べて動きが早い。タップダンスのように足を激しく鳴らすのは男女共通だけど、男性の場合は回転も加わるので、そのたびに汗が周囲に飛び散るのである。  一番前の席だった私たちは大変。女性の汗ならまだしも、男の汗はちょっと…。ドリンクにも汗が入ってもう飲めなくなってしまった。フラメンコ鑑賞は一番前の席は避けるべし。みなさん、参考にしてください。

■ユーラシアツーリングの終わり(マドリッド 10月17日~25日)

アンダルシアをあとに、今度は北上していよいよユーラシアツーリング最後の地、マドリッドへ向かう。街中には入らず、直接郊外にある「ハッピーライダー」を目指した。  ここはメカニックのホセと日本人の奥さん、香代さんと一緒にやっているレンタルバイク屋さん。3年前のツーリングのときには50ccのアプリリアを用意してもらい、スペイン、モロッコ、ポルトガルを2ヶ月かけて旅したのだった。 3年ぶりに会う娘の真理奈ちゃん、さらちゃんはそれぞれ5歳と3歳。幼児にしてすっかりスペイン語と日本語のバイリンガルになっていた。外国で育てば自然にバイリンガルになれるのかと思っていたけれど、お母さんの努力は大きい。母親と話すときは日本語、と決めているのだとか。子供の吸収能力ってすごいなあ。ちゃんと使い分けているのもすごい。  さらにびっくりしたのは、ホセの日本語が上達していたこと。自宅で毎日妻と娘の日本語を聞いているせいもあるだろうけど、日本人の客も多いので努力もしたんだろう、きっと。  私なんかは中途半端に覚えたロシア語と、ほとんど忘れかけのスペイン語がごっちゃになってしまっている。英語だってまったく進歩がないし。己の語学能力の低さを痛感する。っていうか、努力してないから仕方ないか。  私たちはここにバイクを預け、日本へ一時帰国をしたが、帰国までの数日間、ずっと日本人宿で日本のマンガを読んで過ごしてしまった。気が抜けたのだろうか、何をする気力も起きないのだ。  1ヶ月半の日本への一時帰国で充電し、今度はアフリカの旅が始まる。それなのに、頭に思い描くのは納豆、寿司、ラーメン、カツ丼、ああ居酒屋行きたい、など日本の食べ物のことばかり。まずはやっぱり日本食をたらふく食べよう! と思いながら10月25日、マドリッドを飛び立った。

余談だけど、今までさんざん飛行機を利用したけどJALを使うの今回が初めて。JALは最新の機体でスチュワーデスのサービスもよく、日本の雑誌や和食メニューもあって至極快適。さすが日本!

ポーランド・ドイツ・オーストリア・リヒテンシュタイン・スイス・フランス・アンドラ 2002年8月27日~9月19日

■西高東低の法則

バルト三国からポーランドに入る。国境付近の北部には森林もあって野宿しやすかったのに、中央部付近までくると平地になり、街が増えてきた。ずっと平らで人家が続き、人目につくところばかり。ルブリンの街付近でキャンプできる場所を探したけど、結局40kmも走ってようやく見つかったというか、無理やり人家に近い森の中でテントを張った。キャンプ場はまったくない。  前回はポーランドの西側しか走らなかったから大きなスーパーもいっぱいあったし、高速道路もあって「ドイツとあまり変わらないなあ」と思ったけど、東側はまだまだ。  そういえば、ロシアで出会ったポーランド人ライダー2人が「自分たちの街はドイツ国境から30kmしか離れていない」とやたらと強調していた。今思うと納得できる。  トルコや東欧の物価や経済発展度はどうも西高東低の傾向があるのだが、ポーランドもやっぱり例外ではないようだ。

■イワケン&グリくん  「ポーランドの京都」、クラクフ。旧市街には古い街並みが残っている。第二次大戦でポーランドの多くの都市は壊滅的に破壊されたけれど、ここは奇跡的に免れたそうだ。寄ろうかどうか悩んだ末に街の中心地まで行ってみることにして、まずツーリストインフォメーションへ向かったら、荷物を山のように満載した2台のバハを発見。やけにバイクが汚れているけど、これは日本人に違いない。果たして彼等は今年7月に日本を出発、ロシアを横断してきたイワケン&グリくんのコンビ。  「ノーザンウォーカーズ」という、海外ツーリングライダーのインターネットのサイトで、誰が現在どこを走っているのがわかるので、彼らが近くまで来ているのは知っていたけど、こんな路上で偶然に出会えたのはびっくり。ロシアならいざ知らず、道路の多いヨーロッパでは確率が低い。  せっかく会えたのだから、と私たちもちょっと無理して1泊5000円(ツイン・朝食付き)という彼等のホテルに泊まり、早速みんなで旧市街のカフェでビールパーティとなった。  イワケンは新橋生まれの新宿育ち、グリくんは渋谷生まれの渋谷育ち。2人ともバリバリの都会っ子。よくしゃべるイワケンに対し、グリくんは無口でおとなしい。対象的だけど、いいコンビなのだ。グリくんは、海外旅行もバイクも初心者。2輪免許もこの旅のために取った、という。  初めての海外旅行がロシアのバイクツーリングなんて、いくらなんでもすごすぎないか? イワケンに無理やり連れてこられたのか、と思いきやそうでもないらしく、野宿しながらの旅を楽しんでいる。日本では1日に3回くらいしかしゃべらない(イワケン談)のに、私たちと一緒に過ごした数日の間は、ずいぶん話してくれた。旅は確実にグリくんを変えているのだった。

■洪水のあと

ポーランドで出会ったイワケン&グリくんと一緒にチェコへ向かう。ほとんど毎日野宿で毎晩のように焚き火宴会が続いた。彼らは焚き火が大好きで、肉をそのまま焚き火で焼いて食べるというワイルドなキャンプスタイル。ときどきテントも使わず、バイクカバーにシュラフごと包まって寝ることもあるのだとか。私たちもバイクカバーを持ってきているけれど、そういう使い方はしたことがなかった。バイクカバーはいろいろ役に立つので、海外ツーリングにオススメアイテムですよ。  ゆっくりペースの4人は国境から3泊もかかって南ボヘミア地方のチェスキー・クロムノフへやってきた。ここはオーストリア国境に近い小さな街。世界遺産の旧市街には赤い瓦屋根の家々が連なって、いい雰囲気を醸し出している。  そんな落ち着いた街並みとは対象的に、8月中旬の大洪水の影響はかなりひどくて、あちこちで道路が陥没していたり、川が氾濫した跡や、建物にも浸水のあとが見られた。そうとうひどかった様子だが、それがすでに絵ハガキにもなって売られていたのもすごかった。売上は洪水の支援金に当てるそうなので、私もちょっとだけ協力した。  プラハへ向かう道路も洪水のためにところどころ寸断されていて、何度も回り道をさせられた。あちこちで補修工事をしていたし、浸水のあともたくさん見られた。2002年の洪水は記録的なもので、ドイツ南部からチェコまで、相当広い範囲に被害が出たようだ。4年前、住んでいた那須高原でも大洪水があり、そのときバイクに乗っていて死にそうになった経験があるので、洪水の恐ろしさは身をもって知っている。ヒザほどの水位なのにバイクごと流され、「もしかしておぼれ死に?」と思ったのだ。以来、大雨のときはバイクに乗らないようにしている。  ライダーのみなさん、無理は禁物。大雨の日は走っちゃいけませんよ。

■ロシア横断ライダー集合!

チェコ・プラハからドイツ、オーストリアを素通りし、スイスへ急ぐ。スイスには友人のはるみさん&クルトさんの夫婦が住んでいて、そこで今年ロシアを横断してきた「びわこナマズ」こと稲川くんが私たちの到着を待っていると聞いたからだ。  えっ? 稲川くんは7月後半に日本を出たばかりのはず。まだ1ヶ月半しか経っていない。いったいなんでこんなに早いの? 私たちは半分の距離のシベリアだけで同じくらいかかっている。こっちが遅すぎるのか? おかしいなあ。  なんでも稲川くんはバイクをシベリア鉄道に乗せて移動したときに、とてもイヤなヤツと一緒だったせいでロシアの印象がとても悪くなり、早く抜けたくて一気に抜けてしまったとのこと。1日700~800kmのペースで走っていたそうだ。確かにあの鉄道区間では健ちゃんも財布をすられたし、チェコで一緒だったグリくんもトラベラーズチェックを盗まれている。多くのロシア人は親切で素朴なのに、一部の人たちのせいでその国の印象がガラリと変わってしまうこともある。私たちは運よくいい人たちばかりに出会えたからロシアの印象はすこぶる良かったんだけど…。  逆に私たちも日本人の代表のように思われるわけだから、行動や言動には気をつけないと。  はるみさんの家には「クロの親父」こと岡野秀樹くんも来ていた。彼は5月末に出発し、ロシアを横断したあとノールカップも回ってきている。やっぱり早い。カソリックだろうか?  ちなみに稲川くんは世界3周目のベテランライダーで、一方岡野くんは今回が初の海外ツーリングで世界一周を目指している。2人ともこれから東欧を回ったあとアフリカへ向かうということなので、今度はアフリカのどこで出会えるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

■はるみさんとクルトさんのこと

私たちがお世話になったはるみさん、クルトさん夫妻は、20年ほど前にタンデムで世界一周(著書「地球に恋してタンデムラン」<造形社>)したり、車でサハラ越えなどしている旅好きのご夫婦。3年前の冬には、サイドカーでヨーロッパからロシアを通って日本まで来て、日本からは再びロシア、中央アジア経由でスイスまで1年がかりの旅をしている。いわば日本発ロシアルートの先駆者的存在なのだ。  それまではロシアに親戚が住んでいるとか、何か特別なコネクションがなければ自由に旅できるインビテーション(招待状:ロシアビザ取得のために必要)が取れないと思っていた。実際、日本の旅行会社やロシア大使館に問い合わせると、「滞在期間中のバウチャー(ホテルと移動手段のチケット)が必要」、という答え。つまり初めからホテルを決めて列車や飛行機で移動するような旅行じゃないとビザをくれないという。バイクで旅するのだから、そんなのは無理に決まっている。  ところが、はるみさんとクルトさんはロシアの弁護士さんの会社に依頼し、バウチャーなしで旅行できるインビテーションを発行してもらったとのこと。とにかくそれさえあればビザは発給される。  彼らの紹介で私たちもその会社からインビテーションを発行してもらい、3ヶ月のビジネスビザ(観光ビザは1ヶ月しかもらえない)が取得できたのだった。  2002年2月、シャモニーへのスキー旅行のついでに会いに行ったので、今回は3度目、7ヶ月ぶりの再会だ。アルプスの山小屋風のかわいらしい家で5泊もさせてもらい、ゆっくり旅の疲れをとった。  2人は今年の冬、車でチュニジア、アルジェリアへの旅を計画中だとか。5週間の休暇をもらえるというのもうらやましいし、(日本と比べて)気軽にアフリカへ行けるという環境もうらやましい。

■シャモニーを再訪

スイスからアルプスの峠を越えてフランス・シャモニーへ。ブドウ畑の間をぐんぐん登り、フリーパスの国境を越えて峠へ登りつめると壮大なグラン・モンテの山がバーンと目の前に現われた。まだ雪が残っていて、氷河もよく見える。さすがにすごい眺めだ。「帰ってきたぞー!」と思わず叫ぶ。というのは、私たちは2002年1~2月、約1ヶ月に渡ってここ、シャモニーでスキーを楽しみ、毎日のようにアルプスの山々を眺めながら生活していたのだ。  シャモニーの谷にはいくつかのスキー場があり、どこも標高2000~3000mにあり、広大でダイナミックなコースを持っている。その中でも、グラン・モンテのスキー場はスケールの大きさ、コースの多彩さ、雪質ともにNO1、エキスパートが集まるところで知られている。第1回冬季オリンピックが開催された歴史のあるスキー場なのだ。  こうして少し離れて見ると、その大きさがよくわかる。標高3000m以上から一気に標高差2000mも下るのだから、ヨーロッパアルプスのスキー場はやっぱりスゴイ。  アルプスの景観を楽しみつつ、谷間の道をシャモニーの街へ向かう。やっぱりツーリストでいっぱいで、日曜日でもお店がオープンしている(フランスでは普通、日曜日は休み)。夏はスキーではなくトレッキングの人々が多く、日本からの中高年ハイカーもたくさん来ている。シャモニーで過ごした日々を懐かしく思いだしつつ、メインストリートを歩く。  毎朝焼き立てのバゲットを買いに行ったパン屋さん、食材を買っていたスーパー「プチ・カジノ」、黄色いシャモニーバスも変わっていない。たった半年前のことなのに、なんだかとっても懐かしい。  その日はシャモニーのキャンプ場に泊まった。テントサイトからは素晴らしいアルプスのパノラマが広がる。なだらかな山容のモンブラン、天を突くようなエギュー・デュ・ミディ、グランド・ジョラスの先鋒群…。  さよならアルプスの山々。またいつか会いに来るからね。


エストニア・ラトヴィア・リトアニア 2002年8月14日~8月27日

■やっぱりあった「見えない壁」(タリン)<8月14日>

フィンランドのヘルシンキから1時間20分ほどであっという間にエストニアの首都タリンに到着した。 ここでは入国審査もしっかりあって、久しぶりに緊張する。私たちのバイクはヨーロッパ登録でないし、当然グリーンカードもないため、入国手続きに1時間以上もかかった。  やっと開放されてタリンの町を走り出す。10年ちょっと前までソ連だったわりには看板などにキリル文字をほとんど見かけない。ロシア的なものは排除される傾向にあるのだろう。実際にはロシア人もたくさん住んでいて、あちこちでロシア語を耳にするのだけど、エストニア人は当然、ロシアを嫌っている。なんだか複雑。  旧社会主義を実感したのは、北欧にはあれだけたくさんいた、西欧ナンバーのキャンピングカーやライダーをほとんど見かけなくなったこと。それを物語るように、キャンプ場もタリンの近くに1つしかない。途中に看板も全く出ていないし、周辺の住民に聞いても、その存在を知っている人はごく少なかった。  ヘルシンキからたった85kmしか離れていないので、もとソ連とはいえ北欧とそれほど変わりはないだろう、と思っていたけど、やっぱりまだまだ大きな壁がある感じ。  「エストニアは危ないから気をつけろ」とフィンランドで言われたけど、その点では問題なく、いたって平和で危ない雰囲気はまったく感じられない。ユネスコの世界遺産に指定されている旧市街には石畳と古い建物が残り、観光客もいっぱいいた。旧ソ連というより、ドイツの地方都市、といった感じだ。ここもハンザ同盟の街らしい。ドイツの影響はバルト海全域にも及んでいる。すごい。

■キャンプ場の旅人たち(タリン)<8月14~15日>

キャンプ場は混みあっていた。というか、敷地が狭いので仕方がなく隣との距離が短くなり、その分、話す機会も多くなる。その中の一人、ドイツ人ライダーのマニュエルさんは、フリーランスでコンピューター関係の仕事をやっている。シベリア鉄道で中国まで行ったり、南米も数回旅しているという旅好き。今回はたった10日間だ、と言っていたけれど、ドイツから10日間だけの休暇で、気軽に国境を越えて海外ツーリングができるなんて、島国日本から比べるとうらやましい。  ヨーロッパでは日本人がバイクや車で旅するのはとっても珍しい。私たちの『J』マークも「初めてみたよ」と珍しがられる。ヨーロッパの場合、『GB』はイギリス、『F』はフランス、『D』はドイツ、『NL』はオランダ、『E』はスペイン、『CH』がスイスなど、国ごとの識別マークのステッカーを車体に貼っている。EUの国だとナンバープレートにもそうした識別マークが付いているので、どこから来ているのか一目瞭然。でも『J』はまずいない。ユーゴスラビア(JUGOSLABIA)と思われることもある。  次の日、今度はオランダ人のサイクリストのおじさんがやってきた。中国も自転車で旅したことがあるという、おもしろいおじさんで、中国語も少々できるし漢字も少し読めるのでびっくりした。59歳というから海外ツーリングライダーの教祖、カソリさんよりも先輩になる。  また、30代らしきスペイン人のご夫婦は、以前アフリカを車で2、3年かけて旅をし、今度はロシア横断を狙っている。エストニアにまで来るツーリストは、なかなか旅のツワモノが多いようだ。

■英語世代とロシア語世代(サーレマー島・ヒーウマー島)<8月17日>

タリンからバルト海に浮かぶヒーウマー島とサーレマー島に渡った。ソ連時代には立ち入りできなかったため、手つかずの自然が残るのんびりした島である。エストニア人にとっては夏といえば島でキャンプ、というのが定番で、たくさんの人がフェリーに乗り込んできた。自転車や徒歩でキャンプ道具をかついで島で過ごす若者たちも多く、日本の北海道的存在のようだ。  たしかに人も少なく、野宿はし放題、自然はいっぱい。だけど、海は遠浅すぎて泳ぐには適してないし、当然釣りにも向いていない。自然といっても北欧で存分にスケールの大きな自然を堪能してきた私たちにとって、特別どうということはなく、やや退屈な感じだった。  そんなときにヒーウマー島でおじいさんにロシア語で話しかけられた。エストニアの人たちはロシアが嫌いなはず。ここではみんなソ連時代に辛酸をなめているので、ロシア語で話しかけるのは控えたほうがいい、と聞いていたけれど、英語が通じなければ使わざるをえない。あまり気にしないほうがいいのかも。  独立後は英語教育になっているけれど、独立前に教育を受けた世代には、英語よりもロシア語が通じる。ちょっと前までソ連だったんだからあたりまえだけど。 「クラシノヤルスク(シベリアの都市)に住んでたことがある」とおじいさんは言っていた。政治犯か何かでシベリア流刑にでもなっていたのだろうか。人の良さそうな笑顔の下には、私たちが想像できない苦労が隠されているんだろう。  8月も後半、そろそろ夏も終わり。過ぎゆく夏を惜しむようにエストニアの人々が遠浅の海で泳いでいるのを後目に、私たちは島を後した。

■ラトヴィアで2ヶ月ぶりのホテル

首都リーガでは2ヶ月ぶりにホテルに泊まった。駅前に建つ「ホテル・アウロラ」、シャワー、トイレ共同のツインで1泊1800円。ここの物価にしては意外に高い。建物は古びているし受け付けもロシアチック(でも愛想はいい)だけど、ハンガリーのブダペスト以来ずっとテント生活だったので、そのうれしさはひとしお。  部屋は広くて洗面台、カラーTV、さらに冷蔵庫まで付いている。濡れた手で触るとビリっとくるシロモノで危険だけど、しっかり働いているようだし、まあいいだろう。とにかく屋根のある建物だし、中央駅のすぐ前、旧市街へも歩いて行けるという最高のロケーションなので文句は言えない。  バイクは24時間管理人のいる駐車場に預けた。街中の安ホテルの場合、駐車スペースがないのが悩みだけど、その分周辺に管理駐車場がたくさんあるのだ。  今まで移動ばかりの野宿(キャンプ場ではない)生活だったので、街のホテルに2泊できる、というだけでもうれしい。さっそく、洗濯、シャワーを済ませて街を歩く。  せっかく街に泊まってるのだから奮発してレストランにでも入ろう、と思ったのだけど、最近外食に慣れていないのと時間が遅かったせいでどこにも入れずじまい。結局マクドナルドで買い食いとなってしまった。ちょっとさみしい。  自然の中でのキャンプもいいけれど、その国の人々の生活が感じられる街歩きも私は大好き。野宿ばかりだと地元の人と話すチャンスも少なくなるし、テントから離れられないから連泊できず移動が続いて疲れるのだ。  反対に健ちゃんは街歩きが大嫌い。ずっとバックパッカーでさんざん旅してきたくせに、「今まで旅の方法を間違えてた。バイクで移動してキャンプしながら旅するのがワシにはぴったり」とのたまう。最近は「もうバックパッカーには戻れない」とも言いだしている。ただ歩くのが嫌いなだけでは?

■リトアニアの一大リゾート地帯(パランガ・8月21日)

ラトビアを出国した私たちはバルト海へ向かった。150kmを一気に走ってパランガという街へ着くと、国道沿いに「NUOMO」と看板を掲げた人たちがたくさん並んでいた。物を売ってるわけではないしヒッチハイクでもなさそうだし。何だろう?   実は自宅の空き部屋を貸す民宿の客引きなのだった。「NUOMO」とはレンタルという意味らしい。  ここはリトアニア人自慢のビーチリゾート。白砂のビーチが何kmにも渡って続き、そのむこうに青いバルト海が広がっている。リトアニア人なら誰もがパランガで夏を過ごしたいと思うのだそうだ。ソ連時代には「海の向こうは自由な西側世界」という、憧れもあったのだろう。  そのため小さなパランガの街はすごい賑わいで、観光馬車が行きかい、浮かれた人々が楽しそうに街を散策している。ビーチにもカラフルな水着姿の人々がゴロゴロしている。こういう雰囲気が大の苦手の健ちゃんは、一目散にメインストリートを通り抜けてしまい、閑散となったところにあったキャンプ場に掛け込んだ。ああ、せっかく楽しそうだったのに、こんなところじゃリゾートの雰囲気もなにもないじゃない。  また、このキャンプ場がとってもシンプルでびっくり。トイレは板に穴を空けただけの、ロシアチックな汲み取り式だった。温水シャワーも1つしかなく、板で囲っただけ。しかも150円も入れて5分しかお湯がでないシロモノ。西欧の快適な施設に慣れていただけに、「お金を払ってこの施設は何だ!」と文句をいいたくなる。焚き火をしてもいいのがメリットだけど(みんなそれで調理するからだ)、これなら野宿のほうが快適。バルト三国のキャンプ場はまだまだ発展途上、とみた。

■バルト海は猛暑だった(ネリンガ・8月22日)

暑い。日本ほどではないけれど、連日30℃近い猛暑が続いている。例年は夏でも最高気温20℃程度なのに、今年は雨も少なく異常に暑い夏だそうだ。一方、チェコやドイツでは大雨が続いていて、プラハやドレスデンなどの都市では洪水でだいぶ被害を受けた、とニュースでやっている。これらは世界温暖化による異常気象なのかもしれない。  そんなわけで8月末でも、まだまだ暑さの盛りという感じで、パランガの南にある砂洲、ネリンガも同様にリトアニア人のツーリストで大賑わい。海水温はあまり高くないけれど、みんな水着でビーチに寝そべっている。北の国の人々は太陽に貪欲なのだ。  この先、スペインまでしばらく海ともお別れ。同時に夏も終わりになると思うと、なんとなくさみしい。その通り、翌日から急に涼しくなった。秋ももうすぐそこだ。

■日本のシンドラーを訪ねる(カウナス・8月23日)

杉原千畝(ちうね)という人をご存知だろうか? 杉原氏は1939年~1940年、カウナスの日本領事館に領事代理として赴任し、その間に多くのユダヤ人を救った「日本のシンドラー」である。  現在の首都はヴュリニュスだが、当時ヴュリニュスはポーランドに占領されていたので、リトアニア第2の都市、カウナスに各国領事館が置かれていた。

◆ 時は第2次世界大戦勃発直前、リトアニアもソ連軍に侵攻されつつあり、日本領事館も退避勧告が出されていた頃、日本領事館前に突然、大勢の人がやってきた。彼等はみなナチスに追われ、ポーランドから逃れてきたユダヤ人たち。ロシアを通ってアメリカへ行くために、どうしても日本の通過ビザが必要だった。それ以外に生きる可能性のあるルートはなかったのだ。  しかし、日本はドイツと同盟を結んでいたので、彼等にビザを発給することは国に対する背徳行為にもなる。日本政府からの答えも当然、否。しかし、日本のビザがないとユダヤ人たちはナチスに虐殺される…。悩んだ末、政府の意向に反して、杉原氏は独断でビザを発給することに決めた。  それから2週間、杉原氏はリトアニアを出国するまで休みことなくビザを書き続けた。彼が発行したビザは1700、それによって6000人ものユダヤ人が命を救われたという。   だが、そのことで帰国後、日本の外務省を退職させられ、亡くなる前年の1984年、イスラエル政府により、「諸国民の中の正義の人賞」を与えられるまでは、彼の功績は世界に知られることはなかった。

◆現在は記念館となっている旧日本領事館を訪ね、日本語ペラペラのヴィタリユさんにガイドしてもらった。大阪外語大学に1年間留学していたので、日本のこともよく知っている。記念館ではビデオ上映などもしていて、まだまだこれから充実させるとのこと。  その日は私たちのほかにも、3人のユダヤ人が見学に来ていた。杉原氏のビザによって命を救われた人たちが訪ねてくることも多いそうだ。こういう人がいたのだ、と思うと同じ日本人として誇らしい。

※杉原氏のことについては、夫人の幸子さんが書いた「6000人の命のビザ・新版」(大正出版)に詳しい。

■子猫を連れたサイクリスト(カウナス・8月23~24日)

杉原記念館で感動したあと、カウナスの中心地へ戻り、ツーリストインフォメーションへ行ってみると、変な自転車が止まっていた。身障者用かと思ったらそうではなく、単に変な形なだけ。私たちだけでなく、リトアニアの人たちもジロジロ見ている。  オーナーは28歳のスイス人で、今回は5月から半年間、ヨーロッパを回ってる旅人だった。今回の旅の途中、スウェーデンの農場に泊まったとき、産まれたばかりで処分されるという子猫をもらい、以来、一緒に旅をしているという。  彼と一緒に街でビールを飲んでいると、おじさんに英語で話しかけられる。UPSという会社の人らしい。そのほかにも、通る人々がみんな私たちを見て行く。そりゃあそうだろう、変な自転車と大荷物のバイク2台、子猫までいて目立たないわけがない。  彼はいつも野宿で、宿代にお金を使わない主義。シャワーや洗濯も川で済ませたり、かなりワイルドな生活をしているようだ。そのわりにはビールを3杯立て続けに飲んでいたので、エンゲル係数は高いと見た。  話もはずみ、今日は一緒に野宿をしよう、ということになった。ツーリストインフォメーションで聞くと、キャンプ場はないけれど、郊外の森でキャンプできると言うので、出かけてみた。でも、そこは市民の憩いの場で、車やバイクは入れないし、「キャンプ禁止」の看板もある。散歩にきている市民もいっぱいいるし、どうしよう? と考えたけれど、ツーリストインフォメーションがオススメしてくれた場所なのだ。まあ、いいだろうと野宿場所を確保した。  スイス人の彼はいつもパンやヨーグルトだけの食事で、しばらく暖かいものを食べていないというので、健ちゃんが牛丼を作ってごちそうした。「スイス風だ! うまい!」と喜んでいたけれど、牛丼のどこがスイス風なのかわからん。よほど貧弱な食事をしていたのだろう。

■「扉」は最高なのだ(ヴュリニュス・8月24日~27日)

翌日、直接ポーランドへ向かう、という彼と別れ、私たちは首都ヴュリニュスへ向かった。  ヴュリニュスは人口56万も住んでいるわりには、静かで落ちついた雰囲気。旧市街の中にあるホステルにチェックインし、早速でかけた先は観光名所などではなく、日本食レストラン「扉」。健ちゃんが某ガイドブックをチェックし、8ヶ月前から目を付けていたところだ。物価が安いことだし、ヴュリニュスでは外食三昧しよう! ということにしたら、3泊の滞在中、「扉」へは4回も通ってしまった。  何しろ、トンカツが14Lt(462円) 、カツ丼が17Lt(561円)、天丼が17Lt(561円)、にぎり寿司が1つ4Lt(132円)など、外国の日本食レストランとしてはかなり安い。飲み物は味噌汁は8Lt(264円)、お茶が6Lt(198円)もする。ビールは0.3㍑で3Lt(99円)。当然ビールを頼む。久々の日本食、ああ、なんてシアワセ。長旅が続くと何でもない日本の味が妙に恋しくなるものなのである。  ところで、泊まったホステルは大学の寮を夏休みの期間だけ旅行者に開放したもので、学生が管理・運営している。外国にはこうしたシステムのホステルがいくつかあり、ユースホステル同様に利用されている。寮なので2~3人部屋が多い点では、大部屋ドミトリー形式のユースホステルよりは快適だと言える。  隣の部屋には1人旅の日本人女性、掘北さんもいた。パソコンの検索ソフトの会社の契約社員で、旅のHPを検索・閲覧して、それに対してコメントを付ける仕事をしていたそうだ。仕事で旅関係のホームページを読めるなんて、なかなか楽しそう。彼女はフィンランドからバルト三国へ入り、これから東欧、トルコ方面へ向かうという。ガンバレ、オンナの一人旅。

■現代史の舞台に立つ<ヴュリニュス・8月26日>

バルト三国のうち、ソ連に対する独立運動がもっとも激しかったのがここ、リトアニア。1991年1月、ソ連軍の武装部隊からヴュリニュスの国会議事堂を守るため、数万人の市民がここに集まり、非武装の抵抗を示したという。  議事堂の前にはコンクリートバリケードが当時のまま残されていて、十字架や追悼の碑が建てられている。壁には当時の世相を繁栄した落書きが描かれ、それをペンキできれいに修復している人たちがいた。これらは落書きなどではなく、歴史的遺物なのである。  そのほか、市街から5km離れたTV塔は独立運動の際にもっとも多くの犠牲者を出したところ。TV局を守ろうとここにたてこもった市民をソ連軍が襲い、非武装の市民14人が殺され、多数の負傷者を出した。TV塔の前にはそのときの犠牲者14人を追悼する写真入りの十字架が建てられ、「嘆きのキリスト」が打ちひしがれた様相で座っている。  「血の日曜日」と言われるこの事件は、バルト三国の独立運動ではもっとも激しく、強いものだったという。  時は湾岸戦争勃発前後、世界中の目がイラクに向けられていた頃。もちろんバルトの事件はTVで報道されただろうけど、そのとき私はサハラにいたので、バルトの独立劇はリアルタイムでは知らなかった。残念。  教会や古い街並みにはまったく興味を示さない健ちゃんだけど、こういう最近の出来事はおもしろいらしい。杉原氏のことやナチスドイツとユダヤ人のことも、もっと調べたい、と向学心も目覚めたようだ。  それにしても、こうしてヨーロッパ各地を歩くと、ソ連やドイツといった大国が各国に及ぼした影響が相当に大きいことがわかる。旅をしていると、そうした事実を目の当たりにできるので、学校で習う歴史の授業よりもずっと身に付く気がする。健ちゃんじゃなくてもTVや新聞のニュースも興味を持って見ることができるし、積極的に勉強しよう、という気になる。そんなわけで、日本の若者たちよ、もっと外国を旅しよう! 限りのある人生、引きこもってなんていられないのだ。

フィンランド 2002年8月1日~8月14日

■ラップランドはたいくつなのだ<8月1日~5日/イナリ湖>

ノルウエーからフィンランドへ入国したのは夕方6時。マイナーなルートのせいか何もない。途中で一軒だけ見かけたGS兼スーパーは閉まっていたし、その先100kmほど進んでも森と湖が続くだけ。トナカイがときどき道路を横切るくらいで、人の姿もなければ店などないので、その晩はビールもないさみしい夕食になった。
翌日も大自然の中をひたすら進み、ようやくイナリ湖に到着した。
ここはラップランド地方。サーメ人のふるさとだ。サーメ人はノルウエー、スウェーデン、フィンランド、ロシアにまたがる極地に住んでいる民族で、独自のサーメ語を話しトナカイの放牧をして暮らしている。そうはいっても、実際に伝統的な生活を続けているサーメ人は本当にいるのか疑問。ほとんどは近代的な定住生活を送っているのだと思う。みやげ物屋さんなどで民族衣装を着ている人も、普段は立派な家に住んで電化製品に囲まれて暮らしている。
それにしてもフィンランドはフラットで単調な風景が延々と続くだけで退屈してしまう。釣りもダメ。地形が平坦で水深も浅いため、岸からでは狙えず、ボートを使わなければ釣れないし、ボートを借りるのはお金がかかる。でっかいシャケを抱えた釣り人の写真が満載されたパンフレットを見ながらタメイキ。ああ、タダで大物が釣れたノルウエーはよかったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

■北極圏を脱出<8月5日/ロヴァニエミ>

ロヴァニエミという町は北極圏の境界線上にある。人口3万程度とはいえラップランドでは最大の街。私たちにとっても久しぶりの都会だ。
ここには「サンタクロース村」というものがあり、1年中サンタクロースがいて、一緒に写真を撮るのが最大の売りモノ。そのほかにクリスマスグッズの店やレストランが並んでいるバリバリの観光施設。健ちゃんがもっとも苦手とする類のところだけど、何もない北極圏を走ってきたことだし、敷地内に北極圏の境界線が描かれているし、入場料もかからないので寄ることにした。まだ暑いしクリスマス気分にはとてもなれないけれど、ここの郵便局では、クリスマスにハガキが届くようにしてくれるシステムがあり、日本に何枚か送った。絵ハガキも切手も、ちゃんとクリスマス用のものが用意されている。
ロヴァニエミを離れるとトナカイの姿も見なくなり、街と街の間隔も短くなって人家や畑も増えてきた。
俗世に戻ってきたのだ。そして白夜は終わり、暗い夜が戻ってきた。南下するにつれて暖かくなって天気も良くなってバイクで走っていても気持ちがいい。
こうなると白夜の北極圏が懐かしい。ラップランドでは冷たい雨に降られ暴風に吹きつけられ、「早く暖かいところへ移動したい」、と思っていたのに、おかしないものだ。

■バイクのプロブレム連発<8月5日~11日/ロヴァニエミ→ハンコ>

ラップランドで私のセローのリアホイールのベアリングが壊れた。走行4万5000km、普通なら壊れることはない距離だけど…。とりあえずボールを抑え込み、その場しのぎの応急処置で南下した。健ちゃんのほうもリアホイールのスポークが2本だめになっている。イタリアで直した部分だった。バイクもノルドカップまで行って気が抜けたのだろうか?
なんとか600kmほど走ったところで、ベアリングがいよいよダメになってしまった。途中の町でちゃんと直しておけばよかったのに、首都ヘルシンキまで走ってしまおう、と欲張ったのがいけなかった。
壊れたベアリングを取り出し、スペアのベアリングをはまるところまで入れてさらに応急処置をした。壊れたのは左にはまっていた2つのベアリングで、右のほうは大丈夫だったので、これで少しは行けるだろう。
それにしても火事場のバカ力じゃないけど、不充分な工具と技術でも、どうにかこうにか走るようにしてしまう自分に感心した。恥ずかしながら、私はパンク修理くらいしか満足にできないのだ。
その状態で2時間ほど走っていると、ヘルシンキの手前100kmの街でバイクショップを見つけ、ベアリングを新しいものに交換してもらった。これで完璧だろう!
と思ったのも束の間、翌日、200kmほど離れたハンコという港町で、今度は右のベアリングがブレイクしてしまった。どうして? すっかり安心していただけに、ショックは大きい。
今度はスペアも持ってないし応急処置もままならない。それに、もう土曜日の夕方。ショップは開いてないからどうすることもできない。明日も日曜日でどこもお休み。下手に動いて途中でどうにもできなくなったときに困る。お店が開く月曜日まで動かずにいたほうが賢明だ、ということで、郊外の松林の中に野宿地を見つけてテントを張った。こんなとき、いつでもどこでも泊まれる野宿道具は本当にありがたい。
それにしても、どうしてまた壊れたんだろう? シャフトを抜いてよく見ると、左右のベアリングとスペーサーの間に、2、3㎜の隙間があった。もしかしてこれが原因じゃないか? シャフトの先も壊れたベアリングが削ったためか溝ができている。
この先はバルト3国。旧ソ連の国だけに、バイクのパーツもあるか心配だし、英語も通じにくい。フィンランドでしっかりと直しておきたい。
ここから出ているフェリーに乗ってドイツに行き、ドイツで完璧に修理してもらおうか。いろいろ考えながら林の中で週末を過ごした。

■やっと修理完了<8月12日~13日/ハンコ~ヘルシンキ>

月曜日、ハンコの町に行ってみる。小さい町なのでバイク屋はなく、ダメもとで車の修理屋さんで聞いてみると、ベアリングも置いてあったし、修理もできるとのこと。よかった!
原因は予想通りスペーサーが短くなってベアリングとの間に隙間ができ、走っているうちに振動でスペーサーが動いてベアリングを押しているうちに、壊していたのだった。
メカニックの人はベアリングの部品をカットしてスペーサーに溶接しその隙間を埋め、しっかりベアリングも固定してくれた。仕事も丁寧だったし、今度こそ大丈夫だろう。ここは車のほかにモーターボートや農機具のエンジン、自転車など何でも直している。バイク屋さんよりもこういう何でも屋さんのほうが頼りになる存在なのだ。
一方、健ちゃんのスポークはここでも合うものがなくて修理できず、ヘルシンキで数軒たらい回しにバイク屋を回った挙句、ようやくヘルシンキのパーツショップを紹介してもらい、そこでサイズの合うスポークを入手、修理できた。結局、発覚してから修理完了まで1週間。そのためにヘルシンキはまったく観光もせず、バイクショップめぐりに終始してしまった。ああ疲れた。

デンマーク・スエーデン・ノルウエー 2002年6月28日~8月1日


 

 

 

 

 

 

 

 

■バルト海を渡る<6月28日/デンマーク>

北欧とはデンマーク、スウェーデン、ノルウエー、フィンランドにアイスランドを加えた5ヶ国をいう。そのうち一番南に位置するのがデンマーク。ドイツと陸続きだけどバルト海に突き出ているので、フェリーもいろんな町からたくさん出ている。
その中でも一番距離の短いフェリーの出る町を目指して進んでいくと、道路がそのままフェリー乗り場に直行していて、高速道路の料金所のようなゲートがあった。ここでお金を払ってそのまま乗り込むようになっている。実に合理的なシステム。1時間おきに24時間運航されているので予約などする必要もなく気軽に利用できる。でも、たったの1時間しか乗らないのにバイク1台26ユーロ(約3000円)と高く、値段の点では気軽に利用できないのだった。
ドイツ出国、デンマーク入国には出入国審査もなくパスポートのチェックさえしない。EUの国の間では、もう国境はないも同然のようだ。
ところで、デンマークは童話作家アンデルセンの国でもある。まるで童話の世界のようなかわいらしい家並みが続いていて、とってもいい感じ。デンマークの人もなぜか親切で、ちょっと止まって地図を見ているだけで「どうした?」と声をかけてくる。素通りするだけではもったいないなあ、と思いながら先を急いだ。真夜中の太陽「ミッドナイトサン」を見るためには、あと一ヶ月のうちに最北端のノルドカップまでたどり着かなければならないからだ。
それでも首都コペンハーゲンに寄って人魚の像の記念写真だけはしっかり撮ってきた。また機会があったらゆっくり訪れよう。

■ナメクジ大王の森<6月28日/デンマーク>

「こ、これはいったい何?」
デンマーク1泊目、雨に濡れそぼる林の中で野宿したとき、テントの近くででっかい黒いモノを発見した。ブニュブニュしていて、テカテカ光っている。なんだかキモチワルイ。角が4本、頭の部分がツルツルしていて、体は縦スジが入っている。体長は5~10cmもあり、ヌルヌルした粘液を出してウネウネと動いている。
日本のものとはちょっと違うけど、こ、これは、まぎれもなくナメクジ! よく見ると、あっちにもこっちにもたくさんいるではないか! ギャー! ここはナメクジ天国だったのだ! 黒いのを中心に茶色いのや赤いの、白いヤツもいる。みんなデカイ! テントにも這いあがってきて、粘液のあとがバッチリ。健ちゃんが塩をかけてみたけど、ひと皮むけただけで、さらにパワーアップしてしまった。ゲゲゲ。
テントをたたむときなど、テントの底に何匹もへばりついているし、ビールを入れたカップを地面に置いておくと、いつのまにか中で泳いでいる。油断すると靴の中にも入っていたりする。うわあ~! ギャー! やめてくれ~!
デンマークからノルウエー南部にかけては雨が多く、そんなナメクジ大王たちとの付きあいはしばらく続いた。最初はとっても気持ち悪かったのに、何日も見ているうちに、なんとなくかわいく思えてくるから不思議だ。結局写真は撮らずじまいだったので紹介できなくてゴメンナサイ。どうしても見てみたいという方は北欧の森へどうぞ。

■北欧、恐るるに足らず<6月30日/スウェーデン>

物価が高いのでバックパッカーに敬遠されている北欧。デンマークではドイツより少し高い程度で酒も許せる値段だったが、いよいよ北欧の本場(?)スウェーデンに入国。ここでもまたもやフェリーを利用した。
そのフェリーの中ではアルコールがたくさん売られていて、1箱単位でごっそりと買い込んで帰るスウェーデン人がいっぱいいた。スウェーデンではそんなに高いのだろうか? 私たちも買いだめしたいけど、バイクではたくさんは積めないので、1リットルの紙パック入りワインを3つだけ持っていった。
北欧の物価はどんなに高いのだろう? フェリーを下りてからスーパーマーケットにはいってみると、豚肉が400gで300円、ツナ缶が100円くらい。牛乳1㍑100円などなど。一番心配していた酒もビール0.5㍑で150円程度。
なあんだ、これなら日本より安いじゃないか。北欧も大した事がないね、とひと安心。ガソリンは少々高いけれど、北欧は治安もいいので野宿もできて、その分宿泊費が浮くから思ったより安く旅ができそう。北欧、恐るるに足らず、なのだ。

■雨ばっかりで寒いのだ<7月1日~3日/スウェーデン>

ドイツ北部からずっと天気はどんよりしていて、雨の多い日が続いている。地面もベチャベチャで、何もかもがウエット。乾いた場所がどこにもない。洗濯しても全然乾かず、レインウエアも脱げない毎日。
気温も低くてバイクで走るとよけいに寒く感じるので、持っている衣類をすべて着込んで走る。冬のトルコ以来着ることのなかったスパッツも手放せなくなった。酷暑のハンガリーでは見るのもイヤで捨てようかと思ったけど、持っていてよかった~。中央アジアで買ったダサいトレーナーも、ウエスにする予定を先送りにして着ることにする。
毎日朝から雲が重く暗くたちこめ、雨が降ったり止んだりの天気。ああ太陽が恋しい。どうしてこんなに天気が悪いの?
それなのにキャンプ場はどこも賑わっている。地面は水溜まり状態だし風も強くて外で過ごせる状況ではなく、私たちは寒くてテントの中にこもっているというのに、スウェーデンの人たちはテントの周囲に風よけの囲いを作り、Tシャツ姿でビールを飲んでバーベキューをしたりしている。なんか、無理やり「夏」を演出してないか?
海辺にあるそのキャンプ場のパンフレットには水着姿の人々で賑わうビーチの写真が載っていた。これは本当にここなのか疑いたくなる。7月というのにこんな調子でちゃんと暑い夏はやってくるの? 真冬のギリシャよりずっと寒いじゃないか。北欧の人たちが南に憧れ、太陽が出ていればすぐに肌をさらけだすのがわかるような気がする。
私たちはこれから北へ向かう。ますます寒くなるだろうし、ノルウエーもやっぱり雨が多いらしい。物価もさらに高くなるようだし、ああ、北の旅は厳しいのだ。

 

 

 

■ノルウエーはリッチな国

スウェーデンとノルウエーの国境はパスポートチェックも何もない。一応EUの国スウェーデンからEUでないノルウエーへの入国だから本当なら入国スタンプくらい必要じゃないのか、と思うのだけれど。税関も申告するものがある人だけ自分で行くようになっていた。  国境の橋を越えると、立派なツーリストインフォメーションがあり、各種パンフレットがズラリと揃っている。自動車協会発行の地図も、もちろん無料。さすがスイスと並ぶリッチカントリーなのだ。  スイスもノルウエーも国民投票で「EUに加盟しない」ことを選択している。トルコや東欧のようにEU入りを熱望している国もある一方で、ノルウエーのようにEU入りを望まない国もある。EU統合はまだまだ難しいなあ、という印象だ。  国境で無料のパンフレットに気をよくしたあと、スーパーマーケットに入ってびっくり。物価の高さは聞いてはいたけれど、な、な、なんとビールが0.5㍑で25NOK(430円)もする! スウェーデンの3倍以上。高すぎる! しかもワインやウォッカなどのアルコール度数の高いハードリカー類は置いていない。政府公認の専門店でしか販売できないらしい。値段が高いだけではなく日曜日や午後6時以降は売れないなど制限もあるのだ。ここはイスラム国家なのか!   こんな調子なので、ときどき買いそびれてしまい図らずも休肝日もできるし、二日酔いになるほど量も飲めないので健康にはいいのだろうけど、ねえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

■「叫び」と「コンチキ号」<7月5日/オスロ>

オスロはノルウエーの首都とはいえ、人口50万人とこじんまりした都市。道路も整然としていて、中心部は長い自動車専用の地下道路になっていて、車が市街地を通らないように設計されている。そのため渋滞などとは縁がなく、走りやすいことこのうえなし。  私たちは市街から3kmほど離れた高台にあるキャンプ場に泊まり、バスで市内観光に出かけた。  オスロといえばムンクの故郷。美術の教科書に出ていた奇怪な絵、「叫び」で有名なアーティストだ。フィレンツェで美術館に行かなかった健ちゃんは、ムンクだけは見るんだ、と張りきっている。  入場料は60NOK(960円)と高い。私達は学割で40NOKで入れるとはいえ、それでも高いなあ。日本でも1000円くらい取る美術館もあるし、ノルウエーが特別高いわけじゃない、と自分に言いきかす。物価の高いところは日本と比較すると、少し気分が落ちつく。  ムンクは「叫び」の異様な雰囲気からすると狂気で不遇の人なのかと勝手にイメージしていたけど、実際はそうではなく、若い頃から認められてリッチだし、80歳すぎまで長生きしている。作品もたくさん残していて意外に普通の作品も描いているけれど、「叫び」はやっぱりムンクの売り物なので、「叫び」のキャラクターグッズがたくさん並んでいた。  もう一つ、トール・ヘイエルダールの博物館にも行ってみる。イカダのコンチキ号で太平洋を横断した冒険家は、ノルウエー人だったのだ。今年、2002年4月に亡くなったばかりのせいか、ムンク博物館よりも 見学者が多い。コンチキ号やパピルスの船など、実際に使われた船が展示されていたり、ドキュメンタリービデオを上映していたりと、意外に楽しめる博物館なのだった。

■騙されるな! 日本人<7月10日/ベルゲン>

オスロを出て西へ向かう。残雪の山岳地帯を越えるとフィヨルド沿いのクネクネした道になり、絶壁とフィヨルド、滝、氷河湖といった風景が次々に展開する。ノルウエー南西部は典型的フィヨルド地帯で、オスロから海沿いの街、ベルゲンまでがフィヨルド観光の定番コースとして知られている。天気が良ければバイクでも楽しいのだけど、フィヨルド地帯は雨が多い。毎日雨、雨、雨。ど~んよりした空がうらめしい。  それでもがんばって野宿しながらベルゲンへたどり着いた。ハンザ同盟時代の建物が並ぶブリッゲン地区や魚市場周辺はツーリストで賑わい、みやげ物屋もたくさん並んでいる。地元客向けというより観光客向けなので、何でも高い。小さなパンにエビやサーモンを乗せたサンドイッチは1つ500円もするし、チューブ入りのタラコのペーストも、スーパーで買えば22NOK(350円)くらいなのに、1本500円(なぜか日本語)と表示がある。日本人スタッフがいて「日本語でどうぞ」なんて書いてある店もある。ツアー客が必ず寄る場所だからこういう状況は仕方がないとはいえ、なんだか憤慨してしまう。  日本人よ、騙されるな!

 

■ノルウエーは釣り天国<7月14日/モルデ>

ノルウエーの海岸は典型的なフィヨルド地帯。V字に切り立ったダイナミックな景観が世界中から観光客をひきつけている。フィヨルドでは岸からポイと竿を振るだけで水深10メートル以上のところにアプローチできることから、釣りに最適な地形。なんと深いところでは水深40メートルもあるとか。  そんなフィヨルドと大西洋の合流点に「アトランティック・オーシャン・ロード」がある。いくつかの島をつなぎ、豪快なシーサイドドライブを楽しめる観光コースである。写真で見るほどすごくはなく、 途中に橋があり、地元の人が大勢釣りをしていた。  「これはデカイ魚がいるにちがいない」、と健ちゃんがニンマリ。「どうせまたダメだろう」と私は期待せずに見ていたけれど、ルアーを投げたとたんいきなり、ググっと竿がしなり、30cm程のサバが釣れたのでびっくり。「釣れない釣り師」のレッテルを貼られていた健ちゃんは得意顔。私もあわてて自分の竿を振ってみたら、やっぱり簡単に釣れた。サバに混じってタラやセイという白身魚も釣れる。これはしめたゾ。日本以上に物価高のノルウエーでは毎日野宿&自炊でもお金がどんどん無くなっていく。こんなふうにタダで簡単に魚が手に入れば大助かり。その後も、私たちは夕方になるとあちこちで竿を振り、おかずの魚を釣りながら旅を続けたのだった。

■世界最大のうず潮地帯で大物ゲット!

<7月21日/サルツフィヨルデン>  釣~りんぐしながらフィヨルドを北上していくと、世界最大のうず潮で有名なサルツフィヨルデンに到着した。うず潮見物に観光客もたくさんやってくるけれど、釣りポイントとしても有名で、ここのキャンプ場には魚を捌く専用の台所や冷凍庫があり、釣り目的の人ばかりが泊まっている。隣のテントのスウェーデン人のおじさんはここに何度も来ていて、毎回数日滞在し、釣った魚を冷凍にして家に持ち帰ると言っていた。  私たちもここに泊まり、さっそく世界最大の渦潮の中にルアーを落としてみた。すると思惑通りタラや白身魚のセイがバンバン釣れる。しかも日本なら高いお金を払って釣り舟に乗らないと釣れないようなオオモノばかり。初心者の私が安物の竿を適当に振ってるだけなのに、スゴイスゴイ。だけど釣り上げることのできたサイズは60cmまで。それ以上の大きなものも掛かるのだが、リールを巻き上げるのに手間取っているうちに糸を切られてしまうことが多く、糸を太いものに替えたら今度は竿が折られてしまった。 さすがは世界最大のうず潮。デカイ魚がウヨウヨいる。こんなのが岸から簡単に釣れるなんて。しかも、タダ! なのだ。  私たちは海でしか釣りしなかったけれど、川ではマスやシャケも釣れるそうだ。もちろん天然モノ。日本の釣り状況を考えると、ノルウエーは釣り好きの人には最高の環境ですぞ。

■北極圏に突入<7月19日/モイラナ~ボードー>

夏のノルウエーにはバイクツーリストも多い。ドイツ人、スイス人、オランダ人、スウェーデン人etc.。特にドイツ人が多く、みんな600cc以上のビックバイクに乗り、サイドには大きなハードBOXを付け、装備もしっかり揃え、ウエアもバッチリ決めている。それがヨーロッパのライダーの定番スタイルで、年齢も比較的高い。50代以上のご夫婦がタンデムで颯爽とツーリングしているし、2台のバイクで夫婦と子供1人、2人乗りサイドカー付きバイクに4人家族が乗っているのも見かけた。ヨーロッパ(イタリアやギリシャなど南欧は除く)ではバイクは完全に趣味のもので、大人の乗り物になっているのだ。  私たちのように250ccなんて小さなバイクで旅する人はほとんどいない。しかも、「J(日本の国際識別マーク)」マークはここでは珍しく、「どこを通ってきたんだ?」と聞かれることもしばしば。「ロシア、中央アジア」というとみんなびっくり。信じられない、というような顔をする。旧ソ連はヨーロッパ人にとってもまだまだ遠い存在みたいだ。  フェリー待ちの時間に知り合ったアフリカツインのドイツ人カップルのサイドボックスに貼ってあったステッカーを見てびっくりした。私も7年前にお世話になった、アルゼンチンのツーリングクラブのステッカーだった。彼らも去年南米チリとアルゼンチンを5週間ほどツーリングしたという。  フェリーの中でライダー同士、そんな話で盛り上がっている間に北極圏に突入した。北緯66°32′35″、大きな岩の上に地球儀のような形のモニュメントがあった。ちなみに、北極圏の定義は、「その北側において、夏には少なくとも1日以上太陽が沈まない、同様に冬には少なくとも1日以上太陽が昇らない地帯」だとか。

 

 

 

 

■ミッドナイトサンを見たのだ<7月28日/アルタ~マーゲロイ島>

ところで夏のこの時期、北欧は白夜となり夜中も薄明るい状態が続く。それが北極圏まで来ると太陽は1日中沈まなくなり、真夜中の太陽、「ミッドナイトサン」が見られる。夜の12時、太陽は水平線下に沈まず、そのままゆっくりとまた登ってくるという。ヨーロッパでの大きな目的の一つは、この「ミッドナイトサン」 だ。最北端のノルドカップでは7月末までミッドナイトサンが見られるのだけど、この一帯の晴天率は低く、たとえノルドカップに到達しても見られる確率は高くない。夜の12時に空が晴れ渡っていないとせっかくの太陽も雲に隠れて見えないのだ。  ところが、今日は雲もなく空はすっきりと雲もなく、きれいに晴れている。もしかしたらミッドナイトサンが見られるかもしれない。岩絵で有名なアルタから200km、もう夕方6時になっていたけど、白夜だから走れない距離ではない。このまま走ろうか? ということに2人で意気投合し、ノルドカップのあるマーゲロイ島へ向かって一気に走った。  アルタを過ぎると、森林限界となり、木が一本も生えていない荒涼とした風景になってくる。町も少なくなって、いよいよ最果ての旅、というイメージ通りの風景が続く。  結局ノルドカップにたどり着く前に12時になってしまったけれど、ノルドカップを望める場所にテントを張り、無事にミッドナイトサンを見学できた。太陽はちゃんと、12時以降も水平線上にとどまっていて、水平方向に移動していた。バンザーイ! なんだか初日の出を見ているような、厳かな気分だった。

■ノルドカップへ<7月29日/マーゲロイ島>

ミッドナイトサンを拝んだ翌朝、ゆっくりと起きてノルドカップ手前、スカルスヴォーグという小さな漁村にある「世界最北のキャンプ場」へ直行する。涼しくて汗をかかないとはいえ、野宿が6泊続くと、さすがにシャワーを浴びたい。洗濯もしなくちゃならないし、キャンプ場ではいろいろと忙しい。幸い太陽も出ていて適度に風もあるので、すぐに乾くのがありがたい。  夕方、いよいよノルドカップへ向かった。キャンプ場から13kmの距離だ。荒涼とした景色の中を登っていくと、やがて料金所のゲートが現われる。ここに入るのに、なんとお金がかかるのだ。ノルウエーは何でもお金を取る。しかも大人185NOK(2960円、学割100NOK)と高い。ただの突端の岬で、大きなノールカップホールという施設があるだけなのに。  北緯71°10’21’’、ヨーロッパ最北端(本当はすぐ右にあるクニブシェロデン岬のほうが北にあるが、歩いてしか行けない)。夕方、団体客もいない静かな時間に行ったおかげで、記念撮影も存分にできた。風もいつもより弱く、私たちは運が良かったようだ。この日も昼間は天気が良かったのだけど、夜になってから雲が出てきてミッドナイトサンは見られず、夜中には風もひどくなってしまった。

■極北で会った日本人ツーリスト<7月29日/マーゲロイ島>

ノルドカップからキャンプ場へ戻る途中、日本人の自転車旅行者、播磨さんと出会った。ハンガリー以来の日本人個人旅行者。髭面だけど、意外にこぎれいな格好。フリーランスのコンピューターソフトのプログラマーなので、6~8月の3ヶ月間は休みを作って、涼しい国を旅するのだそうだ。カナダ、アラスカ、ニュージーランド、オーストラリアなどなど。ノルドカップも2度目という。播磨さん曰く、 「会社勤めをしている頃に、率先して2週間の休暇を取って旅行したことがあるんですよ。他の人が取りやすくなるだろう、と思って。でも、誰も追従してくれないんです」  日本ではタテマエでは長期休暇が取れても、実際にそれを実行するとヒンシュクを買いがちだし、長期旅行をしようと思ったら会社を辞めなければならない。それ以前に、播磨さんの言葉でもわかるように、長期の旅をしたい、と思う人が少ないし、海外へはツアーでしか行けないと思っている人さえいる。  ここ、北欧にはたくさんのヨーロッパ人が遊びに来ている。車やキャンピングカー、自転車、モーターサイクル、バックパッカー。ドイツ人が圧倒的に多く、他にスウェーデン、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、オランダetc.年齢も国籍もさまざまだけど、定年リタイヤ組以外は私たちプータロー(死語?)と違って普通の会社勤めをしている社会人ばかり。4~6週間の長いバカンスを取れるので会社を辞める必要がないのだ。  ヨーロッパ人って人生を楽しんでるなあ、と思う。日本人は人口1億2千万もいて、海外渡航者数1700万(参考までに、北欧4国の人口合計は2000万人)というのに、ここで会った個人旅行者は播磨さんただ一人。日本人はツアーでしか旅行しない、とヨーロッパ人の多くは思っている。そんなことはないのに。  日本人のみなさん、もっと長期休暇をバンバン取って旅に出て、彼等の考えを改めさせましょう!

ハンガリー・スロバキア・チェコ・ポーランド・ドイツ 2002年5月31日~6月28日

■ハンガリーワインの里、トカイ(トカイ/5月31日~6月2日)

ハンガリーといえば、知る人ぞ知るワインの産地。特に東部のトカイ、エゲルはハンガリーワインの大産地で、ワイナリーがたくさん並び、自家製ワインの試飲、直売をしている。トカイは甘口の白ワイン「トカイ・アズー」、エゲルは赤ワインの「エグリ・ビカベール(エゲルの雄牛の血)」が有名で、ワイナリーごとに味が違うようである。私たちもそれぞれキャンプ場に泊まってワインを味わった。
東部だけではなく、ハンガリーでは各地でたくさんのワインが作られている。走っている途中に「VINO(ワインのこと)」と看板が出ていて、たどって行くとローカルなワイナリーに行きつく。
そういうローカルなワインは1㍑100円以下から買える。スーパーマーケットで買うよりもずっと安くておいしい。ハンガリーを旅するのなら、ローカルなワイナリーを見逃すべからず!


■バラトン湖は思いっきりリゾートだった(バラトン湖/6月4日~6日)

「中欧の海」、バラトン湖はハンガリーきってのリゾート地。湖畔にはたくさんのキャンプ場やホテル、別荘が並んでいる。とりあえず私たちも湖一周してみるか、と向かったが、そろそろ夏のバカンスシーズンなのか、どこも観光客がいっぱい。その多くはキャンピングカーで来ているドイツ語圏のシルバー夫婦。クロアチア以来見かけなかったけれど、またもや彼らのテリトリーに入ったようだ。
湖はかなり広く、「東京都がすっぽり入ってしまう広さ」だという。半周してみたけれど、道路から湖を見ることができない。ストランドと呼ばれる湖水浴場がいくつかあるが、有料だし湖水も濁っていて泳ぐ気にもなれない(でも、西洋人たちは泳ぐのだ)。
なんかイマイチ。ガイドブックを見ると、湖から少し内陸に入ったところにへーヴィーズという温泉湖があり、「ハスの花の間で浮き輪を付けた人がプカプカと浮かび、幻想的な風景」と書いてあった。お、おもしろそう。湖も飽きたし、私たちもそこでプカプか浮かびたい! と思って行ってみることにした。そうしたら、隣接するキャンプ場が超満員。しかもハイシーズン料金で4000フォリント(1920円)だという。高い! 昨日は1500フォリント(720円)で泊まったのに! さらに私たちのテントサイトは他のキャンピングカーのサイトと違って衆人の注目を浴びる川辺リの芝生だという。バカにしてるのか?
雨も降ってきたし、温泉湖も入る気が失せ、ドイツ人シルバーの皆様がプカプカと浮かぶ「幻想的な風景」を見ただけでバラトン湖に戻ることにした。もう西洋的なリゾート地はいいや。素朴だったルーマニアが懐かしい。

■テレサハウスにライダー集合(ブダペスト/6月7日~20日)

ブダペストには現在4つの日本人宿がある。そのうちのひとつが「テレサハウス」。ロックアウトがあってキッチンが使えないので人気がないのだけれど、ライダーにとってはここがベスト。広い中庭があって安全にバイクを駐車できるのだ。
ここにはSRの村田憲治さん&XL250Rの長島文恵さんカップルが滞在していた。憲治さんは北米をスタートし、中南米、ヨーロッパ、アフリカ、ヨーロッパというルートだが、アフリカだけは彼女の文恵さんとタンデムで走ったそうだ。それで目覚めてしまった文恵さんは一度日本に戻ってバイクの免許を取得し、資金を貯めてからヨーロッパで憲治さんと再び合流、ドイツでバイクを買ってめでたくライダーデビューとあいなった。現在は2台でツーリング中。これから中央アジア、そして中国ルートをねらっている。中国を個人で走るのは難しいけれど、憲治さんならもしかして、と思わせるものがある。
彼は北米をスタートしてから7年間、日本に一度も戻らずに旅を続け、お金がなくなると働いて資金を貯める、という強者だ。今までニューヨーク、スペイン、ノルウェー、ドイツで働いたとか。日本で働いたほうがお金にはなると思うのだけど「海外で暮らしてみたかったから」という。すごいバイタリティの持ち主なのだが、本人以上にがんばっているのが走行15万kmのオンボロSR。無事に日本にたどり着けるだろうか?
アテネで一緒だったDR800Sの青山さんにもここで半年ぶりに出会った。冬の間、東南アジアをバックパッカー旅行してからライダーに復活、今度はロシアを横断して日本に戻る予定。青山さんも旅はもう3年になる。それに比べ、1年弱の我々はまだまだ若輩者なのである。

■ここは温泉天国、ホモ天国(ブダペスト/6月7日~20日)

ブダペストといえば、温泉で有名だ。市内には100ヶ所もの源泉があるといわれ、温泉施設もたくさんある。中でも有名なのがセーチェニ温泉。屋外の巨大な温泉プールやいくつもの屋内浴槽、サウナがあり、みんな水着をつけて入る。温度は35℃くらい。大人も子供も一緒に楽しめる健全な温泉なのだが、中には危ない温泉もある。何が危ないのか、というと、ホモである。
その筋では「キラーイ温泉」が有名で、水着はつけず、日本と同じように裸で入る普通の温泉なのだが、ホモが集まることで知られている。行ってきた日本人旅行者に話を聞くと、「最初はわからないんですけど、よく見るとすごいんですよ」
どうすごいのか?
「サウナで待ち伏せされて、3人のオヤジに体を触られました。怖かった」
「真ん中のほうで変にリズミカルに動いてる2人組がいた」
「オヤジが自分のモノをしごきながら近づいてきた」
これは相当すごい。情報ノートを見てもみんな「すごかった」という感想が書いてある。おもしろそう。行ってみたいなあ。男女別なので、私はどうがんばっても入れないから、健ちゃんに様子を見てきてくれ、と頼んだら「貞操が危ないから、絶対イヤだ」と頑固に拒んでいる。「見るだけでいいから」と再三頼んでも、結局行ってくれなかった。う~ん、残念無念。私が男だったら覗きに行くのになあ。ちなみに女性のほうは以前に入ったけれど、特に変わったことはなかった。
ところで、この「キラーイ温泉」、ガイドブックにはそんなことは一切書かれてないが、知らずに浴槽の真ん中に行ってしまったら大変、らしい。「パートナー求む」の意味らしいので、男性諸氏はお気をつけあれ!

■ブダペスト出発の日(ブダペスト/6月20日)

ブダペストではセローのスプロケットとデジタルカメラを受け取る、という目的があったのと、ちょうどワールドカップの日本戦があったせいで長居してしまい、結局予定外に2週間も滞在した。その間にすっかり夏になってしまったようだ。ブダペストに来る前は雨が多かったのに、6月中旬のある日、1日中雨が降り続いたあと、梅雨明けしたように毎日晴天続きになった。日中の気温は35℃を越えて異常に暑いし、夜は9時頃まで明るい。本格的なヨーロッパのバカンスシーズンが始まったのだ。
日本がトルコに負けた翌翌日の6月20日、ライダー5人は一斉に出発することにした。我々はスロバキア、ポーランド経由で北欧へ、憲治さん&文恵さんはルーマニア、ブルガリア経由でトルコ、中央アジアへ、青山さんはバルト三国でビザを取ってからロシア横断とそれぞれ別のルートを行くことになる。今度はいつ会えるのだろう?
海外で出会った日本人ライダーとは、長いつきあいになることが多い。それは外国という特殊な環境で同じように旅する人同志が同じ時間を共有した、という共通の思い出があるからだと思う。実際に日本でもときどき海外ツーリングライダーが集うキャンプ大会が開催されていて、何年も交流を続けている人も多い。ツーリングマップルのスタッフの1人でもある藤原寛一氏も、15年前にオーストラリアで出会った古くからの知り合いだ。こうした仲間との繋がりは今後も大事にしたい。


■グリーンカードをゲットできず(6月21日)

ハンガリーをあとにスロバキアで1泊してからポーランドに入国した。ここの国境では、外国人でもグリーンカード(ヨーロッパ共通の自動車保険)を安く取得できる、と聞いていたので期待していったのだけど…。グリーンカードがないと、罰金1000ドルらしい。実際、イタリアでポリスに見つかって払わされたライダーもいる。でも、居住してないとダメとか、異様に高かったりするので、今まで入れなかったのだ。
入国してすぐ右手にある建物で聞くと、ポーランドの保険にしか入れないという。他の国のは? と聞くと、「チェコ側で入れ」と国境のオフィスを紹介されるが、ここでもチェコの保険にしか入れないとのこと。いったいどうして? 1ヶ月前にここを通った憲治さんたちはちゃんとグリーンカードをゲットしている。
考えられるのは、今までもここの国境でしかグリーンカードをゲットできなかったそうなので、この春の料金改定とともに、ここの職員が「外国人にはグリーンカードを売れない」ことに気が付いてしまったのでは?
とにかく、私たちはあきらめざるを得なかった。仕方なくポーランドだけの保険に加入したので、ポーランド出国までは大丈夫だけど、どうかこの先、ポリスにグリーンカードチェックをされませんように。

■アウシュビッツへ(6月21日)

ポーランド南部に位置する小さな村、オフィティエンチム。ドイツ語で「アウシュビッツ」。いわずと知れた、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の地である。収容所跡は現在「アウシュビッツ・ミュージアム」として一般公開されていて、一人でも多くの人に見てもらおう、という趣旨から入場無料になっている。広島の原爆ドームと並び、人類の負の遺産ともいうべきものだ。
私たちはポーランド入国後、すぐにアウシュビッツを目指した。世界遺産だというのに、看板もほとんど出てこないし、そこまでの道も整備されない田舎道だった。
やっとたどりついた村もさみしい限り。駅前には小さな商店と食堂、ホテルがあるだけ。キャンプ場もホステルに併設されたところだけで、他にキャンピングカーが1台しか泊まっていないし、あたりにはひとっ子一人歩いていない。歴史的にも重要な場所だというのに、荒涼とした平原が続いているだけで、暗くさみしい雰囲気なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

■「負の世界遺産」<アウシュビッツ>(6月22日)
翌日、いよいよ「アウシュビッツ・ミュージアム」へ。さすがにここの駐車場には大型観光バスも止まっていて、たくさんの人が来ていた。みんな他の町に泊まり、日帰りで見学するようだ。
「ARBEIT MUCHT FREI」(働けば自由になる)」と書かれた門をくぐり中に入ると、レンガ造りの収容棟が並んでいて、一見何の変哲もないところなのだけど、あちこちに立つ看板の説明文を読むと、急に過去のできごとが現実として迫ってくる。
説明文はポーランド語、英語、そしてヘブライ語で書かれている。ここを訪れるイスラエル人(ユダヤ人)も多いのだろう。私たちは日本語で書かれたパンフレットを買い、丁寧に見学していった。
大量殺戮に使われたガス室、遺体を焼いた焼却炉、飢え死にさせるための「飢餓室」、90×90cmの狭い空間に4人を閉じ込める「立ち牢」、銃殺をした「死の壁」などが残る。大量の髪の毛は織物や絨毯の材料にもされていたという。
ここで殺された人は計150万人というから、単純に5年間として計算しても1日に800人以上が殺されていたことになる。
本当にそんなことが行われていたのか? と思いたくなるほどだが、これらは、みんなたった半世紀前のできごとなのだ。ナチス・ドイツは狂っていたのだろうか?
ナチスの犯罪には時効がなく、50年以上経った現在でも戦犯が捕まったりしている。高校時代に世界史を選択しなかった後遺症か歴史にうとい私。どうしてナチスがユダヤ人を絶滅させようとしたのか、よく知らない。日本に帰ったら、ナチス関係の本を読んでみよう。
ここでは誰も騒がないし笑ったりしない。人前でイチャつく若者たちもいない。みんな神妙な顔で見学している。私たちもやっぱり言葉が出ない。1日見学したらどっと疲れた。

■「第2アウシュビッツ」ビルケナウ<アウシュビッツ>(6月23日)

翌日は3kmほど離れた「第2アウシュビッツ」と呼ばれるビルケナウの収容所を見に行く。オフィティエンチムの「アウシュビッツ・ミュージアム」よりも数倍大きな収容所で、とにかくだだっ広い敷地にいくつものレンガ造りの収容施設が並んでいるが、その半分以上はナチスが証拠隠滅のために燃やしてしまったそうだ。ガス室も瓦礫状態になっていた。
収容所の外から「死の門」と呼ばれる入口を通って、ガス室まで鉄道の引き込み線が続いている。ナチス支配下の周辺諸国から列車でここに連れてこられたユダヤ人の70~75%は即座にガス室送りにされ、働けそうな人は収容所に入れられ、死ぬまで働かされたのだ。
それにしても暑い。暑すぎる。6月末でこんな気候なのだから、8月はかなりの暑さだろう。冬は逆に冷え込みもひどいようだし、ユダヤ人たちはこんな過酷な場所で働かされていたのか。
見学し終わってキャンプ場に戻ったら、健ちゃんが熱射病になったと騒ぎながら倒れ込んでしまった。日陰で休んだらすぐに回復したけれど、もし健ちゃんがアウシュビッツの囚人だったら、とっくにガス室送りになっていただろう、と思う。
この2日間、なんだか疲れた。「負の世界遺産」の見学は、精神的にも肉体的にもかなり重いのであった。

そんなわけで、ポーランドはアウシュビッツだけにして、あとは北欧を目指してドイツを抜けてデンマークへ急いだ。