ぽこけん

ぽこ&けんいちによる、海外ツーリング、国内ツーリング、テレマークスキー、温泉のホームページです


海外ツーリング レポート

マダガスカル(2003年8月15日~9月14日)

2515_39_50 2615_39_50 2715_39_50■いきなりのガイド攻撃(アンタナナリヴ/8月15日)

マダガスカルの空港に降り立つと、待ってましたとばかりにガイドがやってきた。どうも日本人にねらいをつけている感じ。ガイドはまずタクシーの斡旋をし、客と一緒に乗りこんでホテルまで行く。ホテルが決まってなければなじみのホテルに連れて行く。そして高いツアーに誘うのだ。
まったく海外旅行初心者じゃあるまいし、私たちのような海千山千のツワモノをだまそうったって、そううまくいくわけはないのだ。ウイリーと名乗るそいつは、以前ひっかけた日本人の手紙のコピーを持っていて、それを見せて安心させよう、という手口。東京工業大学のSくんが書いたその手紙によると、ここからミャンドリヴァゾという町まで行き、そこから丸木船で2泊3日の川下り、さらに有名なバオバブ街道のある町まで行ってからアンタナナリヴに戻る、というもの。移動は飛行機ではなく、すべてローカルバス。ガイドはずっと一緒で食事はすべて込みのようだ。Sくんの手紙には「ギリギリ楽しかった」という感想が書いてあった。これって、あんまりよくなかったということじゃないのか? それにそのツアーは1人600ユーロかかるらしい。どう考えても高いし、そんな値段を払う気は私たちにはまったくない。
ガイドのウイリーは私たちが地元の人が利用するミニバスに乗るのを見て見込みなし、と思ったのかあきらめて退散した。ミニバスは約15km離れたアンタナナリヴォまで1人1500fmg(30円)なり。タクシーだと15ドルくらいふんだくられる。これも荷物が少ないおかげ。大きなザックやスーツケースだとタクシーを使わざるをえないので何でも高くついてしまうのだ。

2915_39_50 3015_39_51 3115_39_51 3215_39_51■ここはアジアかアフリカか?(アンタナナリヴ/8月15~19日、9月9~13日)
丘陵地帯に造られたアンタナナリヴの街は坂が多い。フランス植民地時代に建てられたのか、家の造りも洒落ている。そうした家々が坂にへばりつくように並んでいて、独特の風情ある景観をつくりだしている。私たちが泊まった「ホテル・ランベール」はそんな坂道の途中にあり、窓からはアンタナナリヴの街並みが一望のもとに見渡せる。こういう家や街並みはアフリカではお目にかかれなかったので、とても新鮮な感じ。ちょっと田舎へ行けば棚田もたくさんあって、日本人の私たちにとってどこか懐かしい郷愁を誘う。
また、マダガスカル人のルーツはインドネシアやマレーシアから移住してきたアジア系の人々。直毛で肌の色も薄く、ブラックアフリカの黒人たちとは明らかに違うアジア系の顔つきの人が多い。特にうれしいのは、マダガスカルの料理。ベトナム料理や中華料理が一般的に食べられる。たとえば食堂の定番メニューにはミーサオ(焼きソバ)、春巻き、リ・カントニーズ(チャーハン)、スープシノワーズ(ラーメン)などがあって、どこもまあまあの味。しかも一食200円も出せばおなかいっぱいになる。屋台の料理も豊富でしかも安く、揚げ立てのサモサや春巻き、野菜やマカロニ、ポテトなどをミックスしたサラダ
・コンポゼなどなど。アジア的に食べものが充実しているマダガスカルは食い道楽の日々を過ごせるアフリカでは稀有な国。唯一残念なのは、フランス植民地としては例外的にパンがおいしくないこと。見かけはフランスパンなのだけど、中がスカスカで堅い。
ここはアフリカでもあり、アジアでもある。なんだか不思議なところなのだ。

3415_39_52 3515_39_52 3615_39_53 3815_39_54 ■恐怖のタクシーブルース(アンタナナリヴ→アンティラベ/8月19日)

マダガスカル国内の交通はタクシーブルースと呼ばれるミニバスが主流。鉄道路線はごく一部に存在するが毎日運行されてないし、国内線飛行機は貧乏旅行者には高すぎる。そんなわけで時間があってお金を節約したい人はタクシーブルースに限る。
アンタナナリヴに4泊したあと、アンティラベという町へ移動することにし、街の郊外にあるタクシーブルースステーションへ行くと、何人もの客引きにつかまった。アンタナナリヴ→アンティラベはたくさんの会社がミニバスを走らせているので、過当競争気味になっている。どこも自分の会社の車を満員以上にしよう、と必死なのだ(満員になるまで出発しない)。ひどいときは客の取り合いでケンカまでする始末。
ミニバスといってもほとんどは日本から輸入したトヨタ・ハイエースなどの中古バンに座席を付けたもの。乗り心地がよくないうえ定員以上に乗せるのでものすごいギュウギュウ詰め状態。子供は人数に数えないようで大人の膝の上に座る。お金は取られない模様。子供も何歳まで、と基準があるのかないのか、かなり大きな子供も膝の上に無理やり座らされているので、運悪く子供連れ客の横になったらとばっちりを受けてつらい思いをする羽目になる。
あるときは8人乗りの車に子供を含めて17名も乗った。みんなゲロは吐くし途中で寄ったローカル食堂のトイレは最悪だし、さんざん。それでも150km移動してたったの15000fmg(300円)という安さなので我慢するしかない。ガソリンが1リットル500fmg(100円)以上もするのに、この料金でいいのか? ざっと計算してもあまり儲けはない。そう考えると、客をぎゅうぎゅうに詰め込むのも仕方がないんだろう。

3915_39_54 4015_39_54 4215_39_55 4315_39_55■プスプス商売もラクじゃない(アンティラベ/8月19~21日)

そのタクシーブルースで首都アンタナナリヴから南へ170kmあまり、アンティラベという町まで移動した。ここはサファイヤをはじめとする宝石が取れるのと、温泉が湧くので知られる保養地。アンタナナリヴのように車も多くないので、プスプスと呼ばれる人力車がたくさん走っている。決して観光用ではなくおもに地元の人が利用している。市内を走るミニバスが少ないのと、最低料金が1000fmg(20円)とミニバスと同じ値段なので、荷物が多いときには便利なのだ。
プスプスのおじさんたちの多くはボロボロの服を着て裸足というスタイル。夜は路上に寝ていたりするところを見ると、地方から出稼ぎに来ているのだろうか? タクシーのように車やガソリンなど元手がいらない分、まるまる稼ぎになるとはいえ、体が資本の商売だからしっかり食べなきゃならないし、病気になどなったら食いっぱぐれてしまう。登り坂を汗ダクダクになりながらプスプスを引っ張るおじさんたちを見ていると、思わず「がんばれ!」と応援してしまうのだった。
それにしても、この街のプスプスはすごい数。全体の4分の3は客待ちでヒマそう。1日いったいいくらくらい稼げるんだろうと心配になる。私たちは屈強そうな若者ではなく、なるべく年老いて弱そうなおじさんを選んで乗っていた。インドでも廃れつつあるという、リクシャ商売。いまだマダガスカルでは健在なり。

4515_39_56 4615_39_56 4815_39_57■がんばる日本人(ミャンドリヴァゾ/9月5~7日)

バオバブ街道で有名なムルンダヴァからタクシーブルースで数時間、ミャンドリヴァゾという村へやってきた。ここは川下りのスタート地点でシーズンにはたくさんツーリストもやってくるとはいえ、電話さえない小さな村。それでも交通の要所になっているのでタクシーブルース乗り場周辺はちょっと賑やか。そこから宿へ向かって歩いていると、「オースケを知っているか? ここで英語を教えているんだ」と何人かに声をかけられた。どうも「オースケ」はここに住んでいる日本人らしい。翌日、その「オースケ」に会ったが、「オースケ」ではなく「ユースケ」こと藤井祐介さんだった。さらに「英語の先生」ではなく、学校へ行けない子供たちのために識字教育などをしている、とのこと。大学を卒業してすぐ海外青年協力隊に参加、2003年1月からミャンドリヴァゾに来ているそうだ。
この村に住む外国人は祐介さんただ一人。電話がないので本部との連絡には無線を使っている。マダガスカル語で地元の人々と交流し子供たちに囲まれる彼を見ていると、日本の若者もがんばっているなあ、と感心させられる。
海外青年協力隊は「顔の見える外交」とも言われる。私たちのように移動する旅ではなく、その土地で生活するとまた違うものが見えてくるんだろう。

4915_39_57 5015_39_58■外国人料金に対抗したのだ(ペリネ国立公園/9月10~11日)

マダガスカルにはレミュー(原猿)が生息するナショナルパークがたくさんあり、どこも国が管理・運営している。そのため料金は一緒で、外国人の入場料は3日間有効で50000fmg(1000円)と異様に高い。さらに自由に歩けるわけではなくて、必ずガイドを雇って一緒に行かなければならない。これが2時間で20000fmg(400円)前後。1日だと100000fmgなどと高いし、2泊、3泊のトレッキングになるとポーターも雇わなくてはならない。マダガスカルの外貨収入手段とはいえ、外国人料金にはいつも腹が立つ。地元の人の10倍、ときには50倍なんてときもあるのだ。ところがナショナルパークの入場料には学割もあり、それだと1人8000fmg(160円)と格段に安くなる。ペリネ国立公園に行ったとき、ダメモトで日本の免許証を出してみたら「OK、OK」となった。一応やってみるもんですなあ。
そのペリネ国立公園はアンタナナリヴの東80kmにあり、マダガスカルでもここでしか見られないという珍しい原猿「インドリ・インドリ」が見られることで有名。「インドリ・インドリ」は1日30種類以上の植物を食べないと駄目なので、野生のままじゃないと死んでしまうらしく、アンタナナリヴの動物園でも見ることができない。早朝に「キーン、キーン」という独特の声を出してお互いのコミュニケーションを取るのだそうだ。というわけで、アンタナナリヴから1泊2日ででかけ、無事、「インドリ・インドリ」にご対面できた。レミューの中では60cmくらいと最大サイズで尻尾が短く、ちょっとコアラのような感じ。こんな変わった動物がいるなんて、やっぱりマダガスカルは「不思議の島」なのですなあ。

南アフリカ・レソト・スワジランド (2003年7月16日~8月15日)

014_58_42114_58_42214_58_43■ケープタウンへ!(ケープタウン/2003年7月19日~8月2日)

ケープタウンに着いたのは日本を出てからほぼ2年後の2003年7月19日。あいにく小雨の中。雨季なので覚悟していたとはいえ、やっぱり雨はイヤだイヤだ。アフリカの旅をはじめて約8ヶ月、うまい具合に乾季にあたっていたので走っているときに雨に降られたのは初めてだった。
ケープタウンではゆっくりしよう、と決めていたので、いつもより宿探しに時間をかけ、キャンプスベイの丘の上にあるユースホステルに決めた。理由は一番安かったから。ユースホステル会員ならドミトリーがなんと40ランド(640円)という、南アフリカでは破格の安さなのだ。街から遠いので車やバイクのツーリストしかこないため、いつもガラガラに空いていて6人部屋のドミトリーがツイン状態なのもラッキーだったし、キッチンも使い放題。これが込んでいるバックパっカーズだとドミトリーは満室、キッチンも順番待ち、リビングにも座る場所がなく、自分のベッドの上にいるしかない、という状況にもなりかねない。
そんなわけで静かなユースホステルでの休養生活がはじまった。私たちの他にはヨハネスブルグから仕事をしにきた人たちもいて、彼らは口を揃えてケープタウンが一番いい、と言っていた。たしかにケープタウンはとてもいいところ。海があって明るい雰囲気だし、シーフロントには大型ショッピングモールもあるし、ヨハネスブルグなどより治安もいい。ワインの産地だから安くておいしいワインもたくさんある。気候もカラッとしていて年間を通して晴天が多い。短い雨季はあるけど日本の梅雨に比べればよっぽどマシ。数日に1回くらいの割合で小雨が降る程度で、1日中続くこともない。冬でも暖かくて1年中バイクにも乗れる。ナミビアで会ったスイス人ライダーはケープタウンが気に入って、旅の途中で半年も沈没していたと言っていた。ここにはお金持ちの別荘や高級アパートメントもたくさんあり、参考に値段を聞いてみたところ、1ベッドルームのアパートが1週間で3000ランド(48000円)との答え。ごめんなさい、およびじゃないようでした。

314_58_43■日本食のゆうべ(ケープタウン/2003年7月29日)

ケープタウン滞在1週間が過ぎた頃、ツーリングマップルにUPしている私たちのサイトのBBSを見てみたら、なんと知り合いのジャーナリスト、岩戸さんから書き込み。現在仕事で南アフリカにいて、28日にはケープタウンに来るので、うまく会えたら寿司でもおごってくれる、という内容。日付を見たら、ほんの昨日。自分たちでも滅多に見ないBBSだけど、これはグッドタイミング! ぜひおごってもらわねばなるまい。
それからというもの、私たち2人の合言葉は「寿司!」。ワクワクして待つこと数日、29日の夜に無事、岩戸さんに会うことができ、ケープタウン・シーポイントにある日本食レストラン「富士山」で寿司、天ぷら、カツ丼など日本食をたらふくごちそうになった。持つべきものは気前のいいお友達。ごちそうさまでした。
岩戸さんは雑誌を中心に活躍するジャーナリスト。13年前、サハラを旅したときに会った古い知り合いで、パリダカールラリーの取材で来ていた岩戸さんに、あのときも日本食をいろいろもらった気がする。今回は女性誌の仕事で、南アフリカの豪華ブルートレインの取材をメインにあちこち回ってきたという。取材陣は他にカメラマンの瀬戸さんと、ケープタウンに住むガイド役のコウジさんという面々。瀬戸さんは木村伊兵衛賞も取った著名な写真家で、ベトナム系タイ人と日本人のハーフ。瀬戸さんのお父さんが敗戦後、すぐに日本に戻らずタイでベトナム系女性と結婚、その後日本に戻って写真館をはじめたものの、息子である瀬戸さんは自分のお母さんのルーツを知るためにベトナムへ渡ってその風景を写真に収め、写真家として認められた。さらに自分の生い立ちを書いた小説「トーイと正人」がラジオドラマ化されるなど、多才な人。ケープタウンに2年住んでいるコウジさんは、英語の勉強のためケープタウンにやってきたものの、そのまま住みつき旅行会社に勤務中という経歴。それぞれに個性的な人が集まって楽しい夜を過ごした。岩戸さ~ん、今度はエチオピアかエジプトあたりに取材に来てください!

414_58_43514_58_44■最南端へ!(喜望峰・アグラス岬/2003年8月2~3日)

2週間滞在したケープタウンに別れを告げた私たちはケープ半島の先端、喜望峰を目指した。喜望峰といえばバスコ・ダ・ガマ、だったかな、たしか。気分のいいワインディングロードを走って突端の岬に立った。日本から73000km、約2年かかってようやくアフリカ大陸のはじっこまでやってきたのだ、と思うとやっぱり感慨深いものがある。
ここにはツーリストだけでなくバブーン(猿)もいっぱいいて、食べ物ほしさに人間を襲うので注意、という看板が立っている。実際、私も襲われかけた。スーパーの袋に入れて持っていたカメラのレンズを食べ物と勘違いしたらしく、私の目を見てカッ!と怒りの顔(?)になったと思ったら、いきなり飛びかかってきたのだ。間一髪でかわしたけれど、あれは恐ろしかった。高そうなバックでなくスーパーの袋に貴重品を持ち歩く旅行者もいるけれど、強盗の目はごまかせてもバブーンには逆効果なので要注意。
岬をあとに半島の東、ボルダ―ズビーチへ向かう。ここにはペンギンがいるのだ。で、行ってみると、いるいる。ペンギンはビーチ沿いの叢にたくさん巣を作っていてみんなでギャーギャー騒いだり卵を暖めたりしていた。そうだ、ペンギンはアザラシと違って鳥だったんだっけ。ここのペンギンたちはあまり人間を恐れないどころか、海沿いの人家の庭にも巣を作っていて、ペタペタと道路を歩いていたりする。犬や猫やバブーンに襲われないのだろうか?
ケープ半島から海沿いにさらに東へ向かい、本当の最南端、アグラス岬も踏破。こっちは喜望峰とは正反対に閑散としていてかわいそうなくらいだった。正真正銘の最南端だというのに。ちなみにここから西が大西洋、東がインド洋になる。
614_58_44714_58_44814_58_44■ダチョウに乗ったのだ(オーツホーン/2003年8月5日)

南アフリカはダチョウビジネスが盛ん。ダチョウの肉はスーパーマーケットで普通に売っているし、硬くて大きな卵はペイントされてお土産物になっている。皮もハンドバックやらベルトやらに加工され、羽も飾り物などに利用される。そんなわけで、ダチョウ牧場がところどころあり、特にケープタウンの東400kmにあるオーツホーン周辺にはダチョウ牧場が集まっている。中には観光客向けに開放しているところもあって、ダチョウに乗ることもできるという。お、それはおもしろそう。ある牧場で聞いてみると、1時間ほどで32ランド(512円)と意外に安いので早速申し込む。1時間もダチョウの上に乗ってまさか馬のようにおとなしく人間を乗せてくれるとは思えないし、どうするのだろう?
15人くらい集まったところでダチョウツアーはスタートしたが、最初に延々とダチョウの説明をされる。そんなのはどうだっていい。私はダチョウに乗りにきたの! イライラしながら聞く。その後ダチョウの卵や飼育風景を見てようやくダチョウに乗るコーナーに到着した。ところがダチョウに乗るのは子供が優先。運悪く子供連れファミリーが多くて、スタッフは子供ばかり乗せて大人は乗せない気でいる。あやうく乗れないところだったが、それじゃ何のためにお金を払ったのかわからなくなる。フランス人のお母さんが率先して「私も乗る!」と言ってくれたので私もあとに続けたけど、ほとんどの大人は乗れずじまい。なんか詐欺っぽいぞ。
で、ダチョウに乗るのはやっぱり馬のようなわけにはいかなかった。まずスタッフが3人かかりでダチョウをおさえつけ、客が乗ったらダチョウを離す。ダチョウはパニクッているからあわてて走り出し、その後を2人のスタッフが客をサポートしながらダチョウとともに走る、というもの。客は当然すぐにバランスを崩して落馬、じゃなくて落鳥。その間長くて3秒くらい。すごく危ないと思った。

914_58_451014_58_451114_58_45■黒人が元気な国(レソト/8月8~10日)

レソトは南アフリカの中に島のように存在する小国。標高2000m前後の高原にあり、山がちな地形で、ポニートレッキングがここの観光の目玉。ライダーにとってはダートを走りに行くメッカでもあるようだ。どうせ南アフリカとあまり変わらないだろう、と思って行ったのだけど、これがちゃんと違っていたのでおもしろかった。どこが違うのかというと、まず南アフリカではどんな田舎町にも白人が住んでいたのに、レソトではまったく見かけなかったこと。また、南アフリカ資本のスーパーマーケットがあって売っているものもだいたい同じなのに、雰囲気が違う。客も従業員も全員黒人で、ガンガンに音楽が鳴り響く中、みんな音楽に合わせて踊っているのにはちょっと驚いた。中にはおたけびを上げる人もいて、店内はまるでディスコ(死語?)のような賑やかさ。なんだかみんな元気なのだ。さらに、首都マセルにもちゃんと雑然とした市場があり、久しぶりにアフリカ的な屋台の食堂で安い定食を食べられたのもうれしかった。レソトの人たちはソト族という部族で、みんな毛布のような布をまとって歩いている。バソト・ハットという変わった帽子もここのオリジナル。だてに南アフリカに囲まれながら独立を保っているわけではないのだ。がんばれ! レソト(何を?)!

 

1214_58_451314_58_461414_58_461814_58_481514_58_46■アパルトヘイトを考える(プレトリア・ヨハネスブルグ/2003年8月11日~15日)

ケープタウンから約10日かけて、南アフリカの首都、プレトリアに到着した。ここはヨハネスブルグに代わって首都になった街。というのは、アパルトヘイト廃止以降、地方や他国からたくさんの人が仕事を求めてヨハネスブルグにやってきたため、ダウンタウンはスラム化して治安が悪化してしまった。白人たちはみんな郊外へ脱げだし、いまやダウンタウンは黒人だけの街になっている。昼間でも銃を持った強盗が出没、世界で一番危険な街とも言われている。そのため各国大使館や国際機関もプレトリアに移転している。プレトリアはヨハネスブルグから60km、国際空港へも遠くないとなれば、旅行者としてもヨハネスブルグに寄る必要はない。いくつかある見どころへはプレトリアからツアーで行くことができるし、今後もますますビジネス客やツーリストのヨハネスブルグ離れが顕著になりそう。
みんながみんな、口を揃えて「ヨハネスブルグのダウンタウンは危ない」というので、バイクなんかで行ったら襲われてバイクごと奪われてしまうんじゃないかと心配になった我々は、どんなに危ないのかを自分の目で確かめるために1人350ランド(5600円)という高いお金を払ってツアーに参加することにした。
黒人居住区ソウェトとヨハネスブルグ市内観光、アパルトヘイトミュージアムなどを回る1日ツアーで、まずヨハネスブルグ市内を見て回った。普通に商店は開いているし、人も歩いているし、特に物騒な雰囲気は感じられない。ガイドに連れられてグループで歩くだけでは本当に危ないのかどうかはわからじまい。
次に行ったソウェトはヨハネスブルグの南西にある黒人居住区(タウンシップ)で、「SOUTH WEST TOWN SHIP」の略。アパルトヘイト時代、黒人たちは強制的に市内から移住させられたのだけど、
ヨハネスブルグ近郊にあるいくつかあるタウンシップのうちでも最大のものがソウェト。ひとつの都市といってもいいくらい広大なエリアに及んでいる。その中にはマッチ箱のような家が並ぶ一角もあれば、豪邸が並ぶエリアもある。ソウェト=貧しいスラムという図式はもはや当てはまらない。
アパルトヘイトミュージアムは、黒人開放運動の歴史に関する展示が充実していて、写真や映像
でわかりやすく理解できるようになっている。見学時間は2時間あったが、それでも足りないくらいだった。
アパルトヘイト廃止になってから10年足らず。黒人の成功者もいれば落ちぶれてしまった白人もいる。アフリカきっての先進国なのに、いや、先進国だからこそ、他のアフリカの国にはない問題を抱えている感じがする。なんだか難しい。

1614_58_471714_58_47■パーツ待ちで停滞生活(プレトリア/9月14日~10月11日)
マダガスカルから戻ると、なんだか長旅を終えて日本に帰ったときと同じような感覚を味わった。立派な高速道路を走るのはピカピカの車(マダガスカルと比べて)ばかり。日曜日だったせいもあって街中には人があまり歩いていない。露店なんてまったくないし整然としすぎている。なんだかつまらない。旅をしている、という気分になれない。
そんなわけで、さっさと南アフリカを出るべくバイクの旅を再開しようとセローのオイル交換をしていたら、なんと小さな金属片が出てきた。何だろう? カメルーンでも同じように金属片が出てきたことがあったが、やっぱりエンジン内部の何かが破損しているに違いない。幸い宿のすぐそばにヤマハのディーラーがあったので、そこでエンジンを開けて見てもらうと、ファーストとセカンドのギアスプロケットが欠けていた。なんで? 85000km走行にしては、そのほかのエンジンの状態はとてもいい、とメカニックに言われたくらい、私は丁寧に乗っていたはずなのに。よく考えると、このセローは広報車として使われていたものを譲り受けたもの。新車の頃にトレッキング走行などで酷使された可能性はある。
幸い、南アフリカで売っているAG200やTW200と共通パーツなので、取り寄せてもらうことにした。ジェベルのほうもオイルもれの修理を依頼したら、カムチェーンも交換したほうがいい、ということでこっちもパーツ待ち。仕方がない、と覚悟を決めたものの、予想を大きく上回って結局パーツがすべて届くのに2週間、修理完了まで3週間もかかってしまったのだった。

 

ナミビア 2003年6月22日~7月16日

014_34_39114_34_40214_34_40314_34_41■念願のサファリへ!(エトーシャ国立公園/2003年6月24~26日)

アンゴラからナミビアへ入国すると、何の標識もないのにいきなり左側通行になった。交通量が少ないのでうっかりすると右側を走ってしまう。危ない。また、アンゴラ側にあれだけたくさんいた闇両替屋さんがまったくいないのにびっくり。どうしようかと思ったけど、そこはアフリカの先進国ナミビア、銀行のATMでシティバンクのカードがちゃんと使えた。
さて、ナミビアでの最初のアトラクションは「エトーシャ国立公園」。ナミビアきっての動物王国で、ライオン、ヒョウ、ゾウやキリンなど、アフリカならでは動物が見られる。もちろんバイクでの入場は不可なので、ツアー料金と比較したうえでレンタカーを借り、2泊3日のサファリを楽しんだ。
公園入口で地図を買い、好きなところを走りながら夕方5時30分までに公園内にある3ヶ所のキャンプのどこかに到着して泊まる、というのがここのサファリのやりかた。レンタカーならツアーと違って、動物を見られるチャンスも多い。
キャンプ場にはミニスーパーやレストラン、バンガローなど設備も整っているし、近くには水場が造られていて、夜はライトアップされるので居ながらにして動物を見ることもできる。レンタカー代1日N$340(5440円)、公園入場料1人1日N$30(480円)・車1回N$20(320円)、キャンプ場1泊N$180(2880円)、3日間でトータル約30000円の出費は大きかったけど、ゾウやキリン、シマウマはもちろん、ライオンが獲物を食べているところや、サイのケンカも見たし、なかなか姿を見せないと言われるヒョウも間近で見られてラッキーだった。
サファリというとケニアやタンザニアが有名だけど、入園料も高いしツアーに参加しなければならない。ところが、ここナミビアでは自分の車で入れるし、キャンプ場も車2台、8人まで同じ値段だから、家族やグループで来ればとても安上がり。
それにしても、公園のスタッフには黒人が多いのに遊びにきているのは白人ばかり。他のアフリカの国より豊かなようで、やっぱり人種格差があるのかなあ。
414_34_41514_34_41614_34_42■快適なプッチーニ・ライフ(ウインドフック/ 2003年7月3~11日)

大したことなかったホワイトレディの岩絵、ケーププクロスのアザラシの大群、ウォルビスベイのペリカンなど、ナミビアの自然名所を観光しながら首都ウインドフックへ。ここでは「プッチーニ・ハウス」というバックパっカーズに泊まる。バックパっカーズとはいわゆる安宿のことでナミビアや南アフリカにはたくさんある。ほとんどは白人がオーナーで、広い自宅を利用して30人前後(ときにはもっと)客を泊められるようにしている。自由に使えるキッチンやランドリー、リビングスペースもあるし、芝生の庭でキャンプもできるので、ユースホステルよりも人気がある。ドミトリー1泊N$60~70(960~1120)、ツインがN$150(2400円)前後、キャンプだと1人N$40(640円)と安いし、ホテルよりアットホーム。そのためツーリストだけじゃなく、ビジネスで利用する人も意外に多い。
「プッチーニ・ハウス」に泊まっていたメンバーも南アフリカから出張で来ているマイケル&ベニ、
フランス人のフランクはツアーガイド、アメリカ人のディナとポルトガル人のジョアナはボランティアの仕事で滞在中で、彼らと一緒にビリヤードをしたり、ブラーイ(バーベキューのこと)を食べたり、楽しい毎日。居心地のよさにズルズルと過ごしているうち、結局大した用事もないのに8日間も滞在してしまった。
日本にもこんな宿があるといいのに、と思うけれど、東京の一等地にある広い敷地のお屋敷の主人がバックパっカーズを経営する、なんてことはありえない、ですよね。

714_34_42814_34_42914_34_431014_34_431114_34_44■ナミブ砂漠を満喫(ソススヴレイ/2003年7月11~13日)
ウインドフックをあとに、ナミビア一番のアトラクション(とガイドブックには書いてあった)、ナミブ砂漠の砂丘を見るためにソススフレイへ向かった。ナミビアは全体的に乾燥した気候で、海沿いはどこも砂漠になっているけれど、本格的な砂丘の連なりを見るならソススフレイしかない。ここはまさにナミビアならではの景勝地で、ツアーで必ず訪れる場所だ。
ソススフレイの手前70kmのセスリエムにはエトーシャ国立公園と同様、NWR(ナミビア・ワイルドライフ・リザーブ)が管理するキャンプ場がある。やはり値段はN$180(2880円、砂丘の入場料込み)と高いけれど、そこに泊まって朝早く砂丘を見に行かなければ意味がない。砂丘に明暗がはっきりできる早朝が一番きれいだ、と聞いて張り切って前日は早めに寝て、しっかり起きたのに、出発しようとしたら、セローのリアタイヤがパンクしていた。数日前に直したところが、またはがれてきていたのだ。パッチは新しいからボンドが古いのか? 修理しているうちに太陽が登ってきてしまい、この日は残念ながら一番いい時間を逃してしまったので、翌朝再び早く起きてリベンジ。
砂丘から登る太陽を見ながら頂上まで登ると、はるかむこうまで砂丘が続いていて、ダチョウが一頭、急ぎ足で走っているのが見えた。
1214_34_441314_34_451414_34_451514_34_451614_34_46■サイモンとスージー(フィッシュリバーキャニオン/2003年7月15~16日)

砂丘の風景を堪能したあと、フィッシュリバー・キャニオンを目指す。アメリカのグランドキャニオンに次ぐ世界第2位の規模らしい。ここにも例の高いキャンプ場が2個所あり、温泉のある「アイアイス」というキャンプ地のほうは大勢のキャンパーで賑わっていた。ただし日本式の温泉ではなく、温泉プールなのが残念。
ここのキャンプ場でナミブ砂漠で会ったイギリス人のサイモン&スージーに再び出会う。8人まで1グループとみなされ、キャンプ料金が同じなので、これ幸いと仲間に入れてもらった。まったくNWR(ナミビア・ワイルドライフ・リザーブ)のキャンプ場は変な料金システムだ。1サイト2880円もするんじゃ1人旅のライダーは大変。みんなどうしているんだろう。
それにキャンパーはたくさんいるのに、バイク組は私達だけだった。一応、南半球は冬なのでみんなバイクに乗らないのかも。それほど寒くはなく、東京の9~10月くらいの気温なのだけど。
ところで、サイモン&スージーはアフリカツインとトランザルプという組み合わせ。昨年末、イギリスを出発したときは2台ともトランザルプだったのだけど、セネガルでサイモンがロバに激突。ロバは即死でサイモンは幸いにもかすり傷ですんだが、バイクが大破。ガガガーン! 普通ならそこで旅が終わってしまいそうだけど、お金もやる気もある彼らはその後飛行機で南アフリカへ飛び、新しくアフリカツインを調達したとのこと。これからケニアまで行ってインドへ向かう予定。2日ほど一緒にキャンプをしたあと、それぞれに南アフリカ・ケープタウンを目指した。

 

アンゴラ 2003年6月9日~22日

1812_07_18112_07_13012_07_12■激動のアンゴラ初日(カビンダ/2003年6月9日)
コンゴと陸続きのカビンダは、アンゴラの飛び地になっている。私たちはカビンダからアンゴラの首都、ルアンダ行きのフェリーに乗り込むべく、ポイントノワールを出発した。いよいよ、秘境(?)アンゴラなのだ。
ポイント・ノワールから30km、国境にドイツ人サイクリストのピーターがいた。渋い顔をしている。何でかというと、「15000CFAも払わされた」そうだ。コンゴを出国するのに15000CFA(3000円)もするなんて高すぎる。でも私たちも同じだけ払う羽目になった。高すぎるが入国時にカルネを使っていないから、もし通関のことで突っ込まれたらやぶへびだし、仕方ない。
逆にアンゴラ入国はいたってスムーズ。賄賂も手数料も必要なし。よかった。ピーターと一緒に食事をしてから別れて先へ進む。地図では舗装路のはずだが、ひどいダート。かつての舗装路は見るも無残な姿に変わり果てていた。次の町、カコンゴの少し前からマトモな道になり、カビンダには午後3時頃に到着した。
カコンゴという町のミッションカトリックで泊まろうと思ったが、ここにはツーリスト用の部屋はないけれど、50km先のカビンダのミッションで泊まれるという。パドレ(神父さん)がカビンダのミッションの「パドレ・セウー」宛てにわざわざ手紙を書いてくれた。これで安心だ。
カビンダに着き、街の中心にある教会でミッション・カトリックの場所を聞くと、海のほうの教会を教えてくれる。5kmほど離れたそこへ行って手紙を見せると、今度は別な何かの書類が必要、という。よくわからないがとにかく私たちは「パドレ・セウー」と会わなければならないらしい。その「パドレ・セウー」を探すこと4時間、街をあっちこっちしながらやっとその代理の人に手紙をもらった。今度は「パドレ・コンゴ」宛てになっている。ミッションの責任者らしい。これでもう大丈夫だろう、と夜7時、ミッションへ行くともう真っ暗。キッチンで働いているおじさんに言うと、「パドレ・コンゴ」は夜の9時に戻ってくる、という。仕方なくあと2時間、ローカル食堂で夕食を食べることにした。
そこで隣のテーブルに居たペドロさん、コスペロさんらと親しくなった。ペドロさんはアメリカ系のオイルカンパニーに勤めているらしい。コスペロさんもオイル関係のエンジニアだそうだ。2人とも旧ソ連の国に留学していたという。彼らが私たちにビールをおごってくれた。アフリカでぼられたりねだられたりすることは何度もあったけれど、おごられた経験なんてあまりない。彼らはきっとリッチなんだろう。実際、ペドロさんの家はとても立派で、周辺の家もみんな大きい。みんなアメリカの企業が従業員のために提供している家だそうだ。3ベッドルームにキッチン、広いリビングには大型カラーTVもある。奥さんは欧米人でやっぱり仕事を持っているので、おそらく普通のアンゴラ人よりずっとお金持ちだ。アンゴラ、思ったよりちゃんとした国かもしれないぞ。
ペドロさんと一緒にミッションへ行くと、今度は「パドレはもう寝てしまった」とのこと。それでスタッフが私たちを何とかしてくれるわけではない。ひどすぎる。ホテルも満室だし、どうしろ、というのだ。何度もこうして来ているのに、彼らは何もしてくれない。「庭にキャンプさせろ」と言うと、シブシブOKしたが、指定した場所は照明の当たらない暗い場所。とにかく迷惑そう。
スタッフとは対象的に、コスペロさんは外国からのツーリストをこんなところに泊められない、と「家に
泊まれ」としきりに言うので、その言葉に甘えることになった。明日の朝、またミッションにくればパドレに会えるだろう。
コスペロさんの家は、さっきのレストランのすぐ裏。外見は大した家ではないけれど、中には大きなソファセットとカラーTVが2台もある。奥さんはロシア人のナターシャ。まだソ連時代、コスペロさんがアゼルバイジャンのバクーに留学していたときに知り合って結婚したそうだ。
さっきのペドロさんもカザフスタンに居たことがあってロシア語が話せたし、他にも何人かロシア語ができるという人に出会った。こんなところでロシア語を聞くとはびっくりした。旧ソ連も内戦に介入していたので交流があったのだろう。
全然情報もなく、未知の国だったアンゴラ。初日から大変だったけど、なんだかおもしろそう。

712_07_15212_07_13312_07_13■アンゴラ本土への船を探す(カビンダ/2003年6月11~12日)

翌日、ミッションへ行くと、「もうパドレはミサに行ってしまった」という。お昼ごろには戻ってくる、と今度は他の若いパドレがそれまで待つようにソファをすすめてくれた。でも、私たちはもうこれ以上無駄な時間を過ごしたくないので、港へ行ってフェリーの情報を聞くことにした。  大荷物を付けたまま港へ行くと、「ルアンダ行きの船はもうなくなった」と言われる。今はアンゴラ本土北端のSOYOという町までしか運航されていないらしい。その船が明日の朝6時に出航するという。船はSOYOとカビンダを1日おきに往復しているようだ。ドイツ人情報によると、カビンダからルアンダのフェリーは毎週金曜日、とのことだったし、ポイントノワールのアンゴラ領事館にいたおばちゃんも「ルアンダへのフェリーは毎日出ている」と言ってたのに、全然違っている。  いずれにしても私たちはその船に乗るしかないので、チケットを買いに2kmほど離れた「GIRACAB」という船会社のオフィスへ行く。バイク2台だというと「バイクを乗せるスペースはあるが、どうやって乗せるのかが問題だ」との話。とにかく、今日の午後にSOYOからその船が来るから、実際に見てから決めてくれ、と言われる。   船会社にいると、ピーターがやってきた。続いて偶然にもドイツ人ライダーのステファンも追いついてきた。みんなポイントノワールにいた仲間で、コンゴからここまで、私たち含めて4人しかツーリストはいなかった。みんなで船や宿をどうしようか相談していると、TV局の車がやってきて、我々4人は突然インタビューされてしまう。そのうち人がワラワラと取り囲み、すごい騒ぎになってしまった。それよりも、私たちは早く宿を探したいし、船を予約したいのに。  宿は英語のできる人がミッション・プロテスタントを教えてくれ、そこへ行ってみると港からそれほど離れていない。建物も古くてカトリック教会より貧しそうだったけど、こちらのほうが親切で、とにかく場所を提供してくれた。これで今夜の寝床は確保できた、よかった。  それでも、まだ船のほうの問題が残っている。港へ行って船を見てみると、桟橋から船へは人間用の小さな梯子しかない。バイクは無理そうだ。どうしようかとみんなで悩んでいたら、港で働くカブラさんがクレーン会社の人に話を付けてくれて、1台$10で積んでくれることに決まった。どうなることかと思ったけれど、何とかなるもんだ。  あとは明日の出航を待つばかり。これで安心して眠れるはず。ところがミッションの隙間だらけの部屋には蚊がいっぱいで安眠できなかった。

412_07_14512_07_14612_07_14■船は超スローペースだったのだ(カビンダ→ソヨ/2003年6月12日)

翌朝、港に6時に行くと、私たちだけしか来ていない。船のスタッフにはブルガリア人のおじさんが1人いた。半年前からここで働いているらしい。なんでまたアンゴラに来ているんだろう。これも内戦の影響かもしれない。おじさんは私たちにコーヒーをごちそうしてくれた。いつも腹ペコのピーターは「俺たちのために朝食も用意してくれるはずだ」と根拠もなく言っていたけど、それは残念ながらなかった。港には食べ物を売る人がたくさんいるだろう、と朝食も食べて来なかったし、みんな腹ペコだったのでちょっと期待したのだが…。それにしてもアンゴラは他の国と違って屋台や露店の商売がないので、食事に困る。バイクの私たちはまだいいけれど、自転車のピーターにとっては食べ物はバイクにとってのガソリンと同じ。彼がいつも食べ物の心配ばかりするのは、あたりまえのことなのだ。
私たちのバイク3台はクレーンでしっかり船に積まれ、船は9時に無事出航したのだが、どうにも遅い。SOYOまでたった60km余りの距離を、実に7時間半もかけてゆっくりと進んでいった。ザイール川の流れの関係なので、逆ルートは速いそうだ。
そうしてやっとSOYOに着いたのはいいが、ここにはクレーンがない。バイクを陸揚げするのに、今度は板を渡して数人がかりでなんとか船から出すことができた。
バイクと自転車を港に引き上げると、今度は寝場所を確保しなくてはならない。SOYOには宿がないが、そういうときの頼みの綱はミッション(教会)というわけで、町からかなり離れたミッションカトリックへ向かった。コンゴ・キンシャサから来ている、という若いシスターがちょっと当惑しながらも、テントで泊まることを許可してくれた。さらに腹ペコのピーターが夕食のことを訊ねると、なんと食事も用意してくれることになった。この町には食堂もないし食料を買うにも店もない。バケツの水でシャワーも浴びられるし、ありがたいことだ。

812_07_15912_07_15■首都ルアンダは大都会(ルアンダ/2003年6月13~14日)
ソヨを出て370km、カヒトという街で一泊したあとルアンダへ。地方からの避難民らしい人々が住む粗末な家が並ぶエリアを通ると、向こうにビルが林立するルアンダの街が見えた。かなりの大都会じゃないか! 30年間も内戦が続いていた国とはとても思えないが、ここはあまり被害を受けなかったそうで、そのせいで難民が集まってしまったようだ。
街の中心部へ行くと、海沿いにパームツリーの並木があり、大きな建物が並んでいる。ちゃんとした路線バスもあるし、TOYOTAやNISSAN、MITSUBISHIなど、日本車もたくさん走っていて、しかもどれもピカピカのいい車ばかり。いったい、どうなってるの? アンゴラって、もしかしてリッチな国?
道路脇に止まっていると、後ろからステファンも現われた。昨日ルアンダまで来たけれどホテルが高かったので、20kmほど手前の路上で野宿した、とのこと。彼はコンゴ人女性と結婚したほどアフリカが大好きで、もう3度目のツーリング。シャワーも洗濯もキライで、外見はかなり汚らしい。私たちは地雷のいっぱい埋まっているアンゴラで野宿する勇気はない。
ステファンの情報では、$20のはずのホテル・グランドが$70、安いところで$30だったけど、そっちはバイクが置けない、という。ホテルの数も少ないようだ。ステファンはもうビザの延長もすませたし、ルアンダに泊まらず先へ進むと言う。私たちは1泊くらいはしたいので、街を走りながら地元の人に聞きながら探してみると、1泊$31でバイクも置けそうな「HOTEL PARIS」が見つかった。ペンションもあると聞いていたけど、街が大きいうえ地図も情報もなく、探し出すのは難しい。高い、と渋る健ちゃんを説得し、1泊して街を散策した。思ったよりずっとちゃんとしていて、物乞いもいないし観光客相手のしつこい物売りもいない。内戦=難民、貧しい国というイメージは必ずしも正しくないのだ。

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■フレームが折れた!(ルバンゴ/2003年6月17~19日)

ルアンダを出て南へ進み、ベンゲイラという街から内陸ルートを走ったが、これがひどい道だった。かつては舗装だったようだけど、30年の内戦のせいで荒れ果てたまま。アスファルトの残骸がボコボコしていて、それがときどきタイヤにガツン、と当たる。いきなり陥没していたり。まったくのダートのほうが全然走りやすい。  ガタボコのひどい道が終わり、ルバンゴに着いた。標高1700mの高原にあり、コロニアル調の建物が残り、ほどほどの大きさの街。街の向こうに大きな丘があり、街を見下ろすように両手を広げたキリストの像が立っている。そういえば同じポルトガルの植民地だったブラジルのリオデジャネイロにもこんなキリスト像があった。  ペンションがなかなか見つからず、街を右往左往する。ポリスに聞くと物売りのお兄ちゃん2人が先導して教えてくれた。西アフリカならここで「ガイド料をくれ」と言われるところだが、アンゴラではまったくそんなことはなく、純粋に親切。もう何年もツーリストがほとんど来なかったから、スレていないんだろう。  無事に部屋を確保し荷物をバイクからはずしていると、重大な事実を発見した。なんとジェベルのフレームが折れてしまっていたのだ! さっきからやたらに沈むなあ、と思っていたら! 今日の道でやられたのだろうけど、コンゴからずっとひどい道ばかりだったのでさすがに耐え兼ねたのか?  街の修理屋さんで荒療治ながら溶接、補強してもらってなんとか修理完了。はああ、人間のほうも悪路走行の連続に疲れて、その日はぐったり。

 

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■ランゴスタは何処へ?(ナミベ/2003年6月19~20日)

以前アンゴラを走ったN氏が「アンゴラはロブスターが豊富で安い。一生分食べてこい!」とメールをくれたので、私たちはその気になって「ランゴスタ(ロブスター)! ランゴスタ!」と探していた。最初にカビンダでおばちゃんがでっかいランゴスタを売っているのを見たときは期待できそうだと思ったのに、その後はさっぱり見かけなくなった。海沿いのベンゲイラでも、その先の漁村でもランゴスタがなく、食べられないままに南下した。最後のチャンスはナミベ。ここなら海辺の大きな街だし、魚介類レストランなどもあって、ランゴスタだけでなくうまい魚介類も食べられるに違いない、と思ってルバンゴから片道180kmを往復することにした。「ナミベでランゴスタが食えるか?」といろんな人に聞くと「Si(食える)!」と誰もが言うのでわざわざ行ったのに…、なかったのだ!  よく聞くと、今はランゴスタのシーズンではなく、あと2ヶ月くらいしないと採れないらしい。ガーン! 何のためにここまで来たの? 泳げる気候でもないから海辺へ行っても閑散としているし、海沿いに魚介類を食べさせてくれるレストランがあるわけでもない。だいたいアンゴラにはレストランが少ない。屋台の店もないので、食事に困るのだ。  ナミベはもっとリゾートしているのかと思ったのに。がっかりしてペンションを探しながら街中をゆっくり走っていると、ジェベルのエンジンがかからなくなってしまった。どうしたのかと道端で止まっていると、人が集まりだした。そのうちどんどん見物客が増え、今度はラジオ局がやってきた。カビンダでも同じような感じでTV局がやってきたけど、アンゴラでは人だかりができるとマスコミがやってくる、という法則があるらしい。  インタビューされたのはいいけれど、向こうはポルトガル語オンリーで英語がまったくできない。仕方なく下手なスペイン語(ポルトガル語ではない)で受け答えする。勝手にこんなことを聞いているんだろう、と憶測し、適当に答えてたのだけど、あれが放送されたのかと思うとかなり恥ずかしい。  そのうちジェベルのエンジンも無事にかかり、バーに併設されたペンションに落ち着けた。ああ、疲れる。夕食はバーで食べた。ランゴスタではなく、ステーキと魚だった。

コンゴ 2003年5月30日~6月9日

111_07_19211_07_19311_07_19■ドロドロの国境越えルート(国境→ニャンガ/5月30日)

ガボンからコンゴへ入ると、すぐに堀立て小屋があり、そこがポリスコントロールだった。ここで荷物をすべてチェックされる。ガボン最後の町、ンデンデからここまで50km弱、ほとんど車とすれ違わなかったしブッシュタクシーも見かけなかったので、国境を通る車なんて数日に1台いるかいないか。よほどヒマなんだろう。
約1時間かかって荷物チェックを終え、コンゴの道を走り出す。とにかくひどい、のひとこと。両側は背の高い草で覆われていて、鬱蒼としたレインフォレストの中、車1台がやっと通れるほどの幅しかない。しっかり草刈りされていたガボンと比べると、その差は歴然。路面も最悪。もう雨季は終わったはずなのに大きな水溜まりがいっぱい残っていて、ときには膝までの深さになっている。何箇所の水溜まりを越えただろう。そんな道を10km行った先の集落にポリスとミリタリー(ジャンダルメリ)のチェックがあり、ここでやっと入国スタンプをもらう。そこから先も水溜まりは続き、せっかくリーブルビルできれいに洗車してもらったバイクもドロだらけ。膝まで泥水に入ったので靴の中も泥まみれ。
こんな道なのに、ところどころ集落があり、歩いている人もけっこういる。こんなところでよく暮らしているなあ、と感心する。
泥だらけになりながらニャンガという村に到着。たった50kmに3時間余りかかった。ここでまたポリスにすべて荷物をチェックされる。もう、いいかげんにしてくれ!
疲れたので、この日はニャンガに泊まることにした。こんな村でも一応民宿があり、私たち以外にも宿泊客がいたのにも驚いた。首都ブラザビルから試験問題を作りにきている、という学校の先生たちだった。
宿はとてもベーシックで、もちろん電気も水道もない。汲みおきの水も十分にはなく、ドロドロの服は洗えないまま。この先、コンゴの旅はどうなるんだろう。

411_07_20511_07_20611_07_20■コンゴ奥地を行く(ニャンガ→ミラミラ/5月31日)

ニャンガから先の道路は未舗装ながら、幅も広く水溜まりもまったくないいい道だった。ニャンガの奥から木材を運ぶトラックが通るためらしく、太い丸太を積んだ大きなトラックが何台も通る。1台のトラックが私たちの脇に止まり、ドライバーが英語で話しかけてきた。彼はネパール人。私たちをすぐ日本人とわかってくれたのは、さすがアジア人。ア011_42_50フリカの人は東洋人はすべてシノワ(中国人)と思っているし、いくら説明しても中国と日本が違う国とわかってくれない。
こんなところでアジアの人に会うと、なんだかうれしい。この先、ミラミラという町に木材を扱う会社があるようで、マレーシアの人も働いている、と言っていた。
ミラミラはポイント・ノワールとブラザビルへの分岐点。ここでミリタリーの人に道路状況についてたずねると、ブラザビルまでの道路は、内戦のため現在通れない、という。ゲリラがいっぱいいて、危険だとのことだ。ブラザビルまで安全に行くためには、かなりの回り道をしなければならず、その道ももちろん舗装ではないし、地図にも載っていない道だ。
一方、ポイントノワールまでの道路は近年造られた新しい道で、ポイントノワールまでの200km、路面もいいという。ただし、ポイントノワールへ行くとブラザビルまで行けず、そうなるとザイール入国はあきらめることになる。せっかく高いお金でビザを取ったのに。
どうしようか。ガソリンもここでは手に入らないので、まず35km離れたマカバナという町まで闇ガソリンを買いに往復し、今日はミラミラに泊まって1晩考えることにした。
今日の宿は、きのうより更にベーシック。トイレはない(あっても汚いけど)し、井戸もないので、水は近くの川の水を使う。シャワーもその川で行水。ワイルドすぎる。ここは小さい村ながら重要な分岐点なので、バーもあるし小さな店や露店もあり、車を待っている人もいる。
BARでビールを飲んでいると、小さな男の子を連れたおじさんが話しかけてきた。さっきガソリンを入れたマカバナの町の人で、一番上の娘さんが3週間前に病気で亡くなり、それを報告するためにニャンガに住む母親に会いに行くのだ、とのこと。お金がないから薬も買えない、医者にも見せられない、どうしようもなかった、ここからニャンガまでも無料で乗せてくれる車を待っている、とのこと。
それを聞いて、1本800CFAもするビールを飲み、2500CFAの宿に泊まっているのが、それよりも旅のルートについて悩んでいることが、何だか申し分けなく思えた。コンゴのこんな田舎の村には電話さえないのだ。夜半に雨が降り出した。さっきの親子は無事に車に乗れただろうか。

711_07_21811_07_21911_07_21111_42_51■初めてツーリストに出会う(ミラミラ→ポイント・ノワール/6月1日)

昨夜雨が降ったこともあり、ブラザビル行きはやめてポイント・ノワールに向うことにした。丸3日間、ダートを走って疲れたことも理由だったけれど、手持ちのセーファーフランがブラザビルまで間に合うかどうか心配だった。何よりガソリンが1リットル130円と高い。コンゴの田舎では何もないので両替できるかどうかも不安だし、いいかげん泥だらけの服も洗ってすっきりしたかった。ここには汲み水もなく、川の水ですべての用を足さなければならないのだ。とりあえずはポイント・ノワールまで行って少し落ち着くことにしよう。
そんなわけで、ポイント・ノワールまで200km、「とてもよい」と言われた道路を行くことにした。たしかに多少のコルゲーションはあるけれど道幅も広く、国境付近の道に比べればとても走りやすい。雨が降ればヌタヌタだろうけれど、乾季に入ったので逆にホコリがひどい。ここはコンゴの奥地から切り出した丸太をポイント・ノワールまで運ぶトラックのために開かれた道路のようだ。
70kmほど進むと、1台の自転車を発見。カメルーンのヤウンデで1ヶ月前に別れたドイツ人のピーターだった。バイクでもきついのに、よくも自転車で越えてきたもんだ。「サハラよりきつい」と言っていたが、まったく同感。ツーリストもいないし、正確な情報もなければ地図さえあてにならない。アフリカでも一番の難所かもしれない。お互い無事の再会を喜び、ポイント・ノワールで2、3日後にまた再会を約束した。
しばらく行くと、今度は向こうから1台のバイクがやってきた。XT600に40リットルのビッグタンク、アルミノサイドボックスという典型的なスタイル。ドイツ人のステファンだった。彼はピーターの知り合いで、ポイントノワールに2ヶ月滞在していたが、ザイールのビザが取れないので、ブラザビルまで行ってビザを取り、陸路で南下するという。2ヶ月もポイントノワールに居たのは、なんとコンゴ人女性と結婚したからだとか。ステファンは今回で3回目のアフリカバイクツーリング。アフリカにどっぷりはまってしまっているようだ。

■舗装路はどこへ行った?(ポイントノワール/6月1日)

ステファンと別れ、さらに行くと深いダストの道がしばらく続いた。いい道のはずじゃなかったの? でもミシュランの地図によると、もうすぐ舗装路。あと少しのしんぼうだ、と言い聞かせて走る。もうダートはこりごり。早く快適な舗装を走りたいものだ。
ところが、その舗装はひどいものだった。何年か前はちゃんと舗装だったのだろうが、内戦の影響か、今は大きな穴だらけだったり、舗装が剥げて真ん中しか残ってなかったり。車は結局両脇の深い砂の中を走るので、あちこちでスタックしている。これならまだ全面ダートのほうがよっぽど走りやすい。
また、みんな車線など関係なく走りやすいところを選んで走るので交通ルールはめちゃくちゃ。いい道のはずなんじゃないの? 幸い交通量が少ないから事故にはならないのだろう。実際、公共の交通機関もほとんどなく、コンゴでは陸路での移動はほぼ不可能。ポイント・ノワールからブラザビルまで、以前は列車もあったそうだけど、現在は寸断されている。結局飛行機でしか移動できないようだ。
すごい国へ来てしまった。どうしよう。でも、もうすぐポイント・ノワール。大きな町のようだし、水も充分使えてさっぱりできるだろう。早く落ち着きたい。

1011_07_221111_07_22■ポイント・ノワールにて(ポイントノワール/6月1~9日)

ポイント・ノワールは大西洋に面した港町。ここのヨットクラブで無料でテントを張らせてもらえた。ヨットクラブは在住している外国人のための施設らしく、ジェットスキーやボート、ヨットなどが保管されていて、週末ともなるとファミリーでここへやってきて遊んで行く人々も多い。デッキになったバーもあって、ビール1本1300CFA(260円・普通は500CFA)もする高級なクラブ。私たちに提供されたスペースは、卓球台のあるコーナーで、屋根もあって電気も付く。水だけどシャワーもある。よかった、これで洗濯もできる。
2日後、無事にピーターがポイントノワールに到着した。彼はカトリックミッションに泊まることにしたそうだ。10数年前にもコンゴに来たことのあるピーターによると、その頃は、今よりちゃんとしていた、という。道路ももっとしっかりしていて、ガボンからの道もトラックで問題なく通れた、とのことだ。物価ももっと高く、フランス人もいっぱい住んでいてリッチな国だった、との話だが…。物価は依然高い(スーパーマーケットはフランス系で、すべて輸入品。日本なみの物価)けれど、水や電気の供給が一部制限されていた。
それでも、田舎とここの格差はすごい。陸路での移動が大変なので、お金がない田舎の人は町へ出ることはほとんどない。一方、都会にはインターネットカフェもあり、スーパーマーケットがあり、一応何でもある。この差はますます大きくなっていくんだろう。
311_42_51■ステファンが戻ってきた(ポイントノワール/6月5日)

さらに2日後、ブラザビルへ向ったはずのステファンが戻ってきた。バイクはドロドロ。どうしたんだろう、と思ったら、結局ブラザビルへは行けなかったと言う。ブラザビルへのメイン道路は、途中からジャングルになっていて通行不能だったので、ミリタリーに教えてもらった回り道へ行くと、今度は2日間雨に降られ、深いダストの道がドロドロ。5kmごとにタイヤに詰まった泥を落とさなければ進めない状態だったので、仕方なく戻ってきたところだった。回り道は雨さえ降っていなければ大丈夫だろうとのこと。ただし、メイン道路は「JUST FOREST」。首都ブラザビルと第2の都市ポイント・ノワールを結ぶ道路で、地図にも一部舗装された立派な道になっているというのに。
どうも、この道はもう何年も誰も通っていないらしい。国境のポリスで聞いたときもこの道は「大丈夫だ、通れる」、と言われたし、ある村でも「戦争は終わったからブラザビルまで問題なく行ける」と言っていた。でも、実際にこの道を通った人は誰もいないようだった。かつては舗装路だったのに、もう自然に戻ってしまったのだ。
ガボンからコンゴの首都ブラザビルへ向うなら、ガボンのフランスビル経由で東の国境を通らなければいけなかったのだ。でも、それもマトモなルートではない。
とにかく、私たちはポイントノワールに来てしまっていて、ステファンも、ピーターも、私達も、アンゴラビザはシングルエントリーしかない。ここから陸路でアンゴラの飛び地、カビンダへ行き、そこから首都ルアンダ行きのフェリーを探すしか先へ進む道はなくなった。
ポイント・ノワールの、たった4人のツーリストは互いに情報を交換しながらカビンダでの再会を約束し、それぞれに出発したのだった。

 

ガボン 2003年5月23日~30日

014_22_12114_22_13214_22_13■ガボンの人は気前がいいのだ(リーブルビル/5月25~28日)

首都リーブルビルに入り、最初にまずTOTALのGSで給油し、健ちゃんがコカ・コーラを飲んでいたのだがGSのオーナーが、私たちが日本からずっと陸路で旅しているツーリストだとわかると、さらに2本、コーラをくれた。
その夜、串焼き肉の屋台でも、お兄ちゃんが1本おまけしてくれた。今まで、ブラックアフリカではぼられたりねだられたりすることはあっても、おごってもらう、なんてことはあっただろうか?
翌日、アンゴラビザを申請したあと、海沿いに走ってバイク屋を探した。YAMAHAの看板を出している店があったので入ってみると、マリン関係がメインのようだったけれど、一応バイクのパーツも置いてあった。健ちゃんのジェベルのチェーンを探すが、428までのチェーンしかない。別なバイク屋を紹介してもらおう、と店の人に聞いたら、お客の1人が案内してくれることになった。
連れて行ってもらった先は、住宅街の中にある「NITRO JET」。フランス人がオーナーで、ジェットスキーや4輪バギーも扱っている修理販売のショップだった。店舗は出していないので、知っている人しか来られないけれど、在住のヨーロッパ人の常連客が次々に来ていた。日本製バイクも中古のほかフランスから新車も輸入しているし、パーツも揃えていて、520のチェーンももちろんあった。
早速交換してもらい、そのあと高圧の洗車ホースでピカピカに洗車してくれた。それでチェーンも無料でいい、という。今まで5人ほどのライダーが来て、やっぱり同様に世話をしたそうだ。輸入税が53%というガボンなので、Oリングチェーンはヨーロッパの2倍くらいするはず。この国で見つかっただけでもラッキーなのに、ありがたすぎて信じられない。宣伝してくれるだけでいい、と言われたので、この場でも宣伝しておきます。
ガボンで困ったら、「NITRO JET」へ! 英語はあんまり通じないけど親切で、他の国では入手不可能なパーツもたぶん手に入るでしょう。

314_22_14514_22_14■快適なガボンのミッションカトリック(リーブルビル/5月25日~28日)

ガボンの宿はレベルが高い。値段もカメルーンより高いけれど、それなりのことはある。たとえばリーブルビルで泊まったミッションカトリックは1泊2人で8000CFA(1600円)で、なんとホットシャワーが出るのだ! 何ヶ月ぶりだろう。トイレットペーパーも常備されているし、窓には破れていないモスキートネットが貼られている。ベッドも2つあって部屋には洗面台まで付いている。素晴らしい!
その素晴らしい宿に3泊したあと、快適な舗装路を230kmほど走ってランバレネという町で1泊。ここで泊まったミッションカトリックも1人6000CFAとやや高いけれど、とてもGOOD。広い中庭の芝生はきれいに手入れされていて、大きなキッチンには冷蔵庫もあって自炊もできるし、部屋の前にはテーブル、イスがあってくつろげる。部屋も風が通り抜ける造りでとても涼しい。夜は蚊が多いけれど、蚊避けネットが貼られているので部屋の中には入ってこない。
どうして他の国ではこんな風に工夫ができないのか、と思う。マリなどでは暑いのに土壁の部屋で、窓も小さいから風も通らないから、当然暑い。昼間の熱気が逃げていかないので、ファンがなければとても部屋の中で寝られたもんじゃない。仕方なく外で寝るから蚊にも刺されてマラリアにもかかる。同じアフリカでも国によっていろいろなのだった。

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■ダートの道をコンゴへ向う(ランバレネ→国境/5月29~30日)

ランバレネからコンゴへ続く道路はずっとダート。相変わらず鬱蒼としたレインフォレストの中を延々と道が続いている。交通量はごくごくわずかになるが、村はけっこう多い。どこも貧しそうではあるけれど、それでも土壁、草葺き屋根の粗末な家ばかりのマリやギニアの田舎に比べれば、屋根はトタンだし、木造の家なので少しは生活レベルが高いのだろうか。
この辺りの人々は猟銃を持って歩いている。野生動物を捕っているらしく、ときどき猿や小型のワニ、大型のネズミのような動物などの獲物が売られている。私たちがこの道を通っていたとき、ちょうどパトカーが4台も連なって走っていたので、何で? と思っていたら、禁猟動物をチェックしていたのだった。運悪く、ある家のオヤジが捕まっていた。どうもワニが問題だったようだ。お金なんてなさそうな家なのに、どうなるんだろう?
その日はンデンデという、ガボン最後の町で、ガソリンスタンドに併設されていたモーテルに泊まった。一見マトモだし意外に安かったのでよろこんでいたが、どうも体が痒い。よくよくチェクすると、ベッドにはダニがいっぱい! まいったぁ~。また、他に食事できる場所もないようだったので、仕方なく併設のレストランで食べることにしたが、これが高い。魚とご飯の夕食メニューが1人前3000CFA(600円)という。リーブルビルの屋台では1000CFA(200円)で食べられるのに。
でも今日でガボンも最後だしいいか、と意を決して頼んでみたら、白いご飯に魚が1切れ、だけ。一応デザートは付いたけど、ちょっと、あんまりなんじゃないの? 3000CFAといえば、600円もするのだ。もっと豪華な料理を期待していたのに! なんて怒っても、こんな田舎の、たまにしか客がこないレストランでは仕方がないのかなあ。あああ、吉野屋の牛丼が、マクドナルドのビッグマックが、回転寿司が食べたい!

カメルーン 2003年4月12日~5月23日

012_37_40112_37_40212_37_41■北カメルーンのダートを行く(北部カメルーン/4月12~15日)

ナイジェリア国境からカメルーンの国境事務所までは荒れたダートを2~3km行く。イミグレのある村は意外に大きく、ここでナイジェリアのお金をカメルーンのお金に両替してもらった。普通、ナイジェリアのお金は国外では両替できないか、レートが悪いと決まっているのに、ここではいいレートで両替してくれた。ナイジェリア国境の田舎にあるこの村では、カメルーンの町へ出るよりも、ナイジェリアの町のほうが近くて交通の便もいいので、ナイジェリアのお金が必要なのだ。実際、ここからカメルーン最初の町、ガルーアまで出るのに、埃だらけのダートの道を100km以上も走らなければならなかった。  ガルーアからンガンデレまでは舗装路だった。そのンガンデレに泊まったとき、すごい嵐に遭った。夕方から夜にかけての3~4時間、ものすごい雷に加え大量の雨が降り、しばらく食堂から出られなかった。雨は夜中にも降りだして朝方まで降り続いた。これから雨季が始まるんだろうか。なんだか憂鬱になる。  ンガンデレからもまたまた未舗装。雨季になるとドロドロになりそうな赤土の道が延々と続く。コルゲーションもひどいが、しばらくは標高1000m前後の見晴らしのいい高原台地で、バナナやヤシの木が生える広大なジャングルを展望しながら気分よく走れる。熱帯とはいえ風も涼しくて過ごしやすい気候だ。マグバという町でいったん標高が下がるととたんに暑くなり、赤道に近いのを実感する。道はまた標高を上げていき、また涼しくなった。

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■「7つの丘の街」ヤウンデ(ヤウンデ/4月16日)

ダートが終わると、打って変わって快適な舗装路が現われた。道路の両脇はずっとトロピカルな熱帯雨林が続き、鬱蒼としたジャングルの果てに首都ヤウンデがあった。いくつもの丘に囲まれた起伏の多い地形で、標高650~1200mに位置しているので赤道近くとはいえ涼しくて過ごしやすい。1年中雨が多いので緑が濃く、バナナやパパイヤの木があちこちに自生している。160万人が住む首都のわりには落ち着いた雰囲気なのは緑が多いせいかもしれない。  ヤウンデではミッション・プロテスタントに落ち着いた。ここはキリスト教の教会が経営する宿で、「ロンリープラネット」(英語のガイドブック)でも最初に紹介されているためか、旅人が集まってくる。私たちのほかにBMWで旅するイギリス人のカール、自転車ツーリストのドイツ人ピーターも滞在していた。2人ともこれからガボン、コンゴ、コンゴ民主(旧ザイール)、アンゴラ、ナミビアと私たちと同じルートを行く予定だという。  ツーリストの多い西アフリカと違って、カメルーンまで来る人は少ないし長期の旅人が多い。また、この先の国々のビザを取るためにヤウンデで長居をする傾向にある。長く居れば話す機会も多いし、ここの宿のアットホームな雰囲気も手伝って、彼らとはすぐに親しくなった。

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■病気に倒れる(ヤウンデ/4月19~20日)

ヤウンデに到着して3日後、健ちゃんが40℃の高熱を出し寝込んでしまった。ちょうどイースターの連休ということもあり、病院はどこも休み。何とか病院を紹介してもらおうと日本大使館に連絡すると、日曜日にもかかわらず大使館の専属医務官を呼んでくれて、大使館で診察してくれることになった。一介の旅行者のためにドクターを呼びだしてくれるなんて思ってもみなかったので恐縮してしまう。医務官は大使館員やその家族のためのドクターなので、普通一般旅行者を看てくれることなんてないはず。いいのだろうか?  ドクターは金井先生という30代の女性で、同じ医師のダンナ様を日本に置いての単身赴任。学生時代にヨーロッパを1人旅した経験があり、私たちのような旅行者にも理解があるし、同年代ということもあって親しみが持てた。  金井先生はまずマラリア検査をしてくれたが、結果はネガティブ。ただし予防薬を飲んでいると、ネガティブに出てしまうこともあるらしい。マラリアの場合は発症して4日以内に治療薬を飲まないと脳性マラリアに移行してしまい死亡率も高くなるとのことで、とりあえずマラリアの薬を飲む。  健ちゃんの熱は5日間ほど続いたが、その間に私も熱が出てしまった。私もやっぱり血液検査ではマラリアではないという結果。いったい何だろう?  金井先生の紹介でドイツ大使館のドクター・クリップナーに看て貰うと、今度はデング熱が陽性になっているとの結果。さらに市内にあるパスツール研究所での血液検査でA型肝炎と判明。でも、デング熱とA型肝炎が併発、というのはとても珍しいケースらしく、クリップナー先生が学会に報告するかもしれない、とのこと。恐ろしげな名前だけど、どちらもウィルスに汚染された食べ物や水が原因の病気。どこで感染したんだろう、と思い返してみると、潜伏期間から考えてマリのドゴン村あたりが怪しい。どこも水道がなく、瓶の中の汲み水をガブガブ飲んでいたので、あれがいけなかったのかもしれない。(結局、再検査でデング熱は陰性だったことが判明した)。

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■親切な日本大使館(ヤウンデ/4月20日~5月20日)

ドクターの金井先生だけでなく、最初に日本大使館を訪問したときに応対してくれた足立さんも親切だったし、びっくりしたのは大使が自ら私たちの泊まっている安宿にお見舞いに来てくれたことだ。しかもおにぎりなどの日本食も持ってきてくれて、感謝、感激。 「私たち大使館の人間と違って、旅行者の人たちのほうがその国の本来の姿を見聞きしてきているから、話を聞くのがおもしろいんですよ」とおっしゃる。  その後も大使公邸に招いてくれたり、市内を車で案内してくれたり、と恐縮してしまうことしきり。  大使といえば、普通なら恐れ多くて近づけない存在。大使館によっては大使館員でも滅多に顔を会わせることがないというくらいなのに。ツーリストが滅多に来ないカメルーンという国だから、という理由もあろうが、国枝大使の人柄だろう。えらそうなそぶりはまったくない。  日本大使館といえば、どちらかというと、在住の商社マンや日本からの関係者の接待を重視して、個人旅行者には冷たい態度というのが普通。訪ねて行っても現地職員しか出てきてくれなかったり、 出てきても迷惑をかけてくれるな、といわんばかりの態度がありありと感じられることが多いのだけど、カメルーンの場合はまったくそんなことはなかった。おかげで1ヶ月ほどで病気も完治し、無事に再出発することができたのだった。日本大使館の皆さん、ありがとうございました。

1012_37_441112_37_441212_37_44 ■強盗だ! (ヤウンデ/4月25日)

私たちがヤウンデで滞在していたミッション・プロテスタントは広い芝生の中にあって、周囲には教会関係の建物や一般の家が点在している。どこも囲いはなくオープンな雰囲気。裏口のところにはテーブルも置かれ、いつも誰かが座っていたし、みんな夕食もそこで食べていた。夜にはときどきホタルも出てきたりして、私たちのお気に入りのスペースだった。  その晩も健ちゃん、日本人旅行者のM氏、オランダ人ライダーのメインデル、フランス人のファサドの4人が庭で食事しているところへ(私は具合が悪く部屋で寝ていた)、銃とナイフを持った2人組の強盗がやってきた。彼らは 「金を出せ!」 と大声を出し、まず日本人ツーリストM氏の頭をなぐって流血させてから、健ちゃんのポケットをまさぐった。ところが、タバコしかなかったので、メインデルが次のターゲットになった。メインデルはズボンをズタズタに切られながらも頑張って抵抗していたのに、ファサドはいち早く宿の中へ逃げてしまっていたし、 健ちゃんは逃げることもせずに事件の一部始終をボーっと見ていたそうだ。  一方、宿の娘ステファニーは機転をきかせて、大声で叫びながらポリスを呼びに走ったため、周囲の家の人達も次々に出てきたので強盗は逃げて行ったが、彼らは中年で足も遅く、1人は宿の息子ジェフに捕まり、警察に引き渡された。  それにしてもマヌケな強盗だ。ツーリスト御用達の腹巻き貴重品入れの存在を知らずに、みんなのポケットだけしか探らなかったため、被害はメインデルが持っていた600CFA($1)とメインデルのズボン、M氏の頭の怪我(2針縫った)だけ。M氏などは腹巻に全財産を持っていたというのに。まあ、それで難を逃れたから不幸中の幸いといったところか。私としては現場に居合わせることができなくてちょっと残念。それよりも、その事件以来、庭のテーブルは取り払われ、食事は中でしか食べられなくなったのが何よりも残念だった。

ナイジェリア 2003年4月3日~4月12日

■国境越えはラクラク(ニジェール国境/4月3日)

ニジェール国境の街、ビルニン・コニからナイジェリアへ入国した。アフリカ人も恐れるというナイジェリア。賄賂が横行しドロボウばかり、という恐ろしい噂も聞いたことがあるし、ガイドブックにも「ナイジェリアの国境はどこもプロブレム」と書かれている。アフリカで出会ったツーリストの中で、ナイジェリアへ行く、という人はとても少ないし、どちらかというと、みんな避けている。本当にそんなにひどい国なんだろうか?   悪い噂のために偏見を持っていたので覚悟して臨んだわりに、イミグレ、税関ともにいたってフレンドリーでマトモで賄賂も請求されない。しかもフランス語オンリーだった今までの国と違って英語が通じる(ナイジェリアの公用語は英語)! なんだ、ちゃんとした国じゃない、ナイジェリアって! これだけでナイジェリアに対する印象はすこぶるいいものになってしまった。我ながら単純。

■ガソリンがない!(4月3~12日)

ナイジェリアは世界6位(?)の産油国。ニジェール国境の街にもナイジェリアからの安いガソリンが入ってきていたので、ナイジェリア国内ではきっともっと安いに違いない、と予想してほとんどタンクを空にして行ったのに、入国してみると、ガソリンがない! ガソリンスタンドはも抜けのからか、長い列ができているかのどちらか。とうにつぶれてしまっているGSも多い。いったい、どうなっちゃってるの? 並んでいる人に聞いても、いまひとつ要領を得ない。  イラク戦争が始まって政府が供給を制限しているのだとか、民族紛争が激しくなって外国の企業が撤退した影響だとか、はたまた4月後半に行われる選挙のせいだとか、よくわからない。本当は26N(23円)なのに、その値段で買えたためしはなく、たまに空いているGSで並んでも、60N(54円)くらい。路上の闇ガソリンは100N(90円)/㍑という値段になっている。それでもまだ西アフリカよりは安いけど。  都会のGSは特に長い行列ができていて、いつ来るともしれないガソリンを待っている。そんなところではみんな殺気だっていて怒鳴りあいしたりケンカになったりしている。恐い恐い。下手に列に加わるととばっちりを受けそうな勢いなので、仕方なく闇ガソリンを買うことになる。  それにしても、路上の高い闇ガソリンは豊富にあるのに、ガソリンスタンドが開店休業なんておかしい。誰かがどこかで操作してボロ儲けをしているに違いない。

■人口大国ナイジェリア

ナイジェリアは人口1億100万人。面積は日本の2・5倍ほどあるが、アフリカでは群を抜いて人口が多いので、どこでもとにかく人、人、人。そのため地図上では小さな村なのに、実際行ってみると、実はとても大きな街だったりする。ニジェールやマリなどと同じ感覚でいると人の多さにびっくりする。  また、ナイジェリアではツーリストや日本製のバイクが珍しいのと、ナイジェリア人のダイレクトな性格もあってか、いつでもどこでも遠慮なしに私たちの回りに人が集まってきてジロジロ見られる。話しかけてくるわけでも、物乞いするわけでもなく、ただじっと見ているだけなので、困ってしまう。集まる人数も多くていつのまにかすごい人だかりになる。そんな中にはときどき親切な人もいて、私たちにあれこれ教えてくれたり、面倒を見てくれたりすることもある。決してお金が目的でなく、純粋に親切なのだった。そうした点で、他の西アフリカの国々とナイジェリアはちょっと違うな、という印象を持った。それだけツーリストが少ない、ということだろうか。  そんなふうにどこでも注目の人になりながら、高原の街、ジョスに着いた。マリ、トーゴ、ベニン、ニジェールと暑い国ばかりだったので、標高1200mのジョスは涼しくて過ごしやすい。そろそろ雨季なのかときどき雨も降るけれど、アフリカに入って初めての雨は、優しく大地に染み込んでいくのだった。

 

 

 

 

 

■ヤンカリ国立公園で休息(ヤンカリ/4月9~11日)

ジョスで5泊したあと、ヤンカリ国立公園を目指す。西アフリカで一番象の生息数が多い、というところ。物価が安くツーリストが少ないナイジェリアでは、こうしたナショナルパークもローカルプライスでとても安いのがうれしい。入場料は1日200N(180円)、バイクは100N(90円)、カメラ持ち込み500N(450円)、コテージ形式になったホテルはツインで700N(640円)。  実際、外国人ツーリストはほんのわずかで、遊びに来ているのはナイジェリア人ばかり。大学生の団体や子供連れのファミリーが来ていた。  サファリツアーもたったの90円! 残念ながら象は見られなかったけれど、ウォーターバックや何種類かの猿が見られた。中でもマントヒヒは多くてコテージの回りにも出没し、食べ物を狙って部屋に入ってくることもある。私がマンゴーの食べ残しを部屋の前のゴミ箱に入れておいたら、その匂いに釣られてやってきて、部屋の入口にあった健ちゃんのタバコも危うく盗まれそうになった。  ヤンカリ国立公園には動物だけでなく、ウッキーホットスプリングスもある。ヤシの木が茂るジャングルの中にあるトロピカルでワイルドな温泉で、水温31℃。澄んだ水が流れる自然のままの川では子供たちが楽しそうに遊んでいる。私たちもシアワセな気分に浸りながら温泉を満喫した。  ここで2泊してゆっくり過ごしたあと、一気に500km走ってカメルーン国境へ向かった。ナイジェリアでは4月12日は州知事選挙、19日は大統領選挙、5月にも別な選挙があるとかで、国中が選挙運動で盛り上がっていた。これまでにも選挙がらみの暴動が起こっているし、選挙日以降はもっと頻発するともわからない、とラジオでも注意していたので、なるべく選挙までには出国しよう、と急いだのだ。  国境には夕方に到着。出国手続きをしたあと、税関の建物で泊めてもらった。ローカルな村だったせいもあるけど、とても親切だった。ナイジェリアが恐ろしい国、という噂はいったい誰が流したんだろう。

ブルキナファソ・トーゴ・ベナン・ニジェール 2003年3月25日~4月3日

■ビールが冷えているのだ!(ブルキナファソ・ワガドゥグ/3月25~29日)

マリのドゴン村で前田りゅうさん&直子ちゃん夫妻と別れ、一路ブルキナファソを目指した。彼らはガーナからバイクごと飛行機で南アフリカまでワープする予定なので雨季になろうが関係ないけれど、陸路でずっと行こうともくろんでいる私たちは、ナイジェリア、カメルーンの雨季が心配だった。道路も舗装ではないから、下手をすると通行不能になってしまうかもしれない。もう3月も終わりなので、タイムリミットではあった。そんなわけで、これからカメルーンまではちょっと急ぎ足になる。  マリからブルキナファソへ向う国境付近のダートの道は思ったよりも整備されていて、深い砂の箇所はまったくなかった。もうすぐ舗装されそうな道路。アフリカもどんどん旅しやすくなっている感じがする。 ブラックアフリカはどこもそうだけど、国が変わったからといって、ガラリと雰囲気が変わったり、民族が違ったりすることはない。もともと現在の国境はヨーロッパの列強によって引かれたものだから、同じ 文化圏の人たちがマリ人になったりガーナ人になったりしているだけで、たとえ公用語が違っていても部族語は一緒だからあたりまえなのだけど。  マリより南に位置するためか、ブルキナファソはイスラム色が少ない。モスクも少なく、それに反比例するように、BARがたくさんある。しかもみんな午前中からおおっぴらにビールを飲んでいる。これはいいぞ。  私たちも安宿に落ち着くやいなや、宿の中にあったバーでキンキンに冷えているビールを飲んだ。

■マンゴの町にて(トーゴ/3月29~31日)

トーゴ入国時の荷物チェックは厳しく、サイドバックもトップケースも全部中身を確認された。外国人は私たちだけのせいもあって興味本位だったのと、ヒマだったのが理由かもしれないけれど、パッキングし直すのが面倒なんだよねえ。  国境のダートを南下して行くと、乾燥したサヘル気候からだんだん緑が増えてきて、背の高い木が現われた。雨が多いのだろう、湿気も多くなってきた。  なんとなく適当な宿が見つからないうちに暗くなってしまい、マンゴという小さな町でなんとか宿を探し当てた。客は私たちだけだったが、トイレ、シャワー、扇風機付きの部屋が3500CFAと物価はさらに安くなった。ここのマネージャーは英語を話すのでびっくり。首都ロメの人で、隣国ガーナの友人がたくさんいるから(ガーナは英語)、とのこと。アフリカの人は自分の部族語のほかに旧宗主国の言葉を話すが、それは部族間の共通語にもなっている。1つの国の中にも部族がたくさんあり、その部族ごとに言語があるので、共通語がないとコミュニケーションがとれないのだ。彼らにとってのフランs語や英語は、日本人が英語を習うのとはわけが違う。新聞もTVも、雑誌もフランス語や英語なのだから読み書きできなければ生活するのが大変になる。ここのマネージャーも、自分の息子との間ではフランス語を使っていた。なんだか複雑なのだ。  町には食堂もなかったが、バーが1軒あり、屋台の串焼き肉をつまみにビールを飲んだ。バーのお兄さんはとても親切で、何やかやと面倒を見てくれた。もう少しフランス語が話せたらもっと楽しいのになあ、と思う。

■選挙日は入国禁止?(ベナン/3月31日~4月1日)

トーゴで1泊したあと、すぐに隣の国、ベナンへ向った。トーゴで出国手続きをすませ、100m先のベナンのイミグレへ行くと、なんと今日は選挙日で入国はできない、と言われた。なんで? どうして? トーゴ出国のときに係官が教えてくれてもよさそうなのに? 憤慨してもここはアフリカ。おとなしくまたトーゴに入国手続きをして、30km離れた町まで引き返す。5ヶ国共通ビザはマルチプルで何度でも出入国できるから、こういうときに都合がいい。  翌朝、同じ国境へ向う。今度は無事に入国できたが、税関手続きをしようとすると「行ってもいい」と言う。いつもはカルネを使うか税関でバイクの書類を作ってもらうのだけど…。出国のときにモメないだろうか? 少々不安だ(結局出国時も税関に寄る必要なかった)。

 

■おじさんライダーと出会う(ニジェール/4月1~3日)

ニジェールへは特に用事もなかったし、はっきり言ってナイジェリアへ行くには遠回りで寄り道になる。それなのに、なぜわざわざ、と思う諸氏がいるかと思うが、理由は「せっかく5ヶ国共通ビザを持っているのにもったいない」ということだった。加えて訪問国を増やす、という健ちゃんの思惑もあって、ちょっとだけかすめることにしたのだ。  そんなわけで、首都ニアメイにも寄らず、トーゴ、ナイジェリア国境の片境地を走っただけになってしまったけれど、それでも1000km近く走ったので、「ニジェールを旅した」と言うことはできるだろう。ニジェールにも腹ペコ少年たちがたくさんいた。やっぱり貧しいのだろうなあ。   国境の町に着き、キャンプ場のバンガローに落ち着いた。早速キャンプ場のバーで冷たいビールを飲む。何しろ暑くてとても表に出られない。日向に出ると焼けつくような日差しが照りつけている。こんなところで生きるのは大変そう。  他に誰もツーリストがいないと思っていたら、隣のバンガローにフランス人ライダーがやってきた。BMWに乗る57歳のコンボイさん。その昔はオイルビジネスでアフリカに駐在し、その資金をもとにフランス・グルノーブルでホテルを経営していたけれど、1年前にホテルの権利を売って旅に出たとの話だった。もちろん奥さんや子供もいるけれど、子供ももう大きいし、きれい好きな奥さんはアフリカの旅にはとても耐えられない、と同行してくれなかったので、結局1人でバイクツーリングをすることになったのだそうだ。  彼の今回の旅はカメルーンまで行ってから引き返し、これからアルジェリア経由(※)でフランスに戻る、とのこと。こんな暑い時期にサハラ越えなんて大丈夫? ここでも昼間は45度にもなるから、砂漠の中では50度を越えるだろう。砂漠の旅は厳しいのだ。

※アルジェリアを通るサハラ越えのホガールルートでは、2003年2月に31名の車・バイクツーリストが行方不明になっている。

マリ 2003年3月7日~3月25日

■バマコは大きな田舎町(バマコ/3月8~15日)

ギニア国境からホコリだらけのダートが終わり舗装路に出たと思ったら、もうバマコの町だった。首都にしては何もなく、ごちゃごちゃした小さな露店、脇道は土の路面でゴミが散乱している。ビニールゴミが多いのは、ジュースや水を小さなビニールに入れて売っていて、みんなそれを気にせずそのへんに捨てているからだ。果物の皮やパンクズならヤギやニワトリが食べてくれるけれど、ビニールはいつまでもそのまま残るのに、誰も片付けない。  道路の両側はドブになっていて、何年か分のそんなゴミが堆積しているうえ、人々がトイレとしても使っているためか、ひどい異臭がする。やたらと蚊も多いし、きれい好きな人には耐えられないかもしれない。  街中のミッション・レバニーズに落ち着いた。ここもかなり汚い宿なのに、難民キャンプのようなドミトリー部屋で1人2500CFA(500円)、コンクリート造りの暑くて監獄のようなダブルベッドの部屋が8000CFA(1600円)もする。それでも街中にありながら広い庭があってバイクを安全に止められるし、バーもあってビールも飲めるのがありがたい。電気は1日中使えるし、水道から水も充分に出る。西アフリカではそれだけでもすごいことなのだ。ギニアを旅したあとなので余計にそう思えてしまう。

 

■暑い! 暑い!(バマコ/3月8日~15日)

ミッション・レバニーズのドミトリーは13のベッドがあり、15人くらいは泊まれる。私たちが着いた日は他に1人だけだったのが、そのうちスペイン人のグループやカナダ人などが続々とやってきて、本当に難民キャンプ状態になった。スペイン人グループは犬まで連れてきていて、一緒に部屋で寝ている。 彼らは車で来ていたが、ここで車を売って戻るそうだ。車がなくなったら犬はどうするのかと思ったが、犬も一緒に飛行機で帰れるから問題ない、とのこと。  さらに3日目、XLR80ccで旅する直子ちゃんとりゅうさんがやってきた。彼らは1週間以上も前にバマコに到着し、そろそろ出発しようと思っていたところに、私たちから到着のメールがあったので、郊外のキャンプ場からこっちに移って来たとのこと。私たちもゆっくりペースだけど、彼らもかなりゆっくり旅をしている。結局、彼らは私たちに付きあってさらに1週間も滞在することになった。  それにしても、毎日暑い。このあたりはサハラ砂漠の南に位置し、乾燥したサヘル気候で、6~9月に雨が集中して降り、それ以外の時期はまったく降らない。3月の今は乾季の終わりなので、暑さは最高調。 とにかく昼間は40℃以上にもなる猛暑のためとても出歩けず、ドミトリーのベッドでぐったり過ごすしかない。暑さが人を怠け者にするようだ。マリの人たちが、昼間マンゴーの木の下で昼寝したりしているのも、もっともなことなのかもしれない。

 

■モスクと月曜市のジェンネ(ジェンネ/3月17~19日)

バマコに1週間滞在したあと、直子ちゃん&隆さんと一緒にジェンネに向かって出発した。ジェンネは土を固めたスーダン様式の巨大なモスクがあり、モスク前で行われる月曜市が見もの。私たちはその月曜日のお昼頃に町に到着した。  観光名物になっているとはいえ、ジェンネ周辺に住む人々の交流の場としての市なので、売っているものも生活必需品や食品ばかり。買い手もほとんどローカルな人々で、ツーリストはひやかし半分にのぞいて写真を撮っていくだけ。それも月曜日が終わるといなくなってしまう。  そのせいか、有名な観光地のわりに宿は少ない。私たちのホテルには水道はなく、女の子たちが近くの井戸から水を汲んできている。シャワーもバケツの水を使う。安いだけに部屋にはファンもなく、暑くて中ではとても寝られないので結局屋上のテラスに寝ることにした。屋上は昼間は暑いけど、夜は風が通り抜けて涼しいのだ。  最初から部屋ではなくテラスに寝る人もいて、そのほうが多少宿代が安くなる。どうせ部屋で寝られないのならそうすればよかった。そのテラスの住人に1人旅の大阪の女子大生がいた。バマコでも一人旅の日本人女性に会ったし、日本の女の子も西アフリカをたくましく旅している。彼女は建築関係の学生で、学内の懸賞論文にパスして、大学から40万円の資金を出してもらったそうだ。日本の大学もなかなか粋なことをするもんだ。  夜はジェンネの広場にある屋台で食事をした。屋台の回りには、お腹を減らした少年たちがたくさん待ち構えていてびっくり。お客が残した食べ物をもらうためだ。少しでも皿に残っていると、それを奪い合うように食べている。本当にそんなに飢えているんだろうか? 大きめの空き缶やプラスティックのバケツを持って残飯を集めている子もいる。セネガル、ギニアではまったく見かけなかったし、首都バマコにもいなかった。  こうした腹ペコ少年たちは、ジェンネだけでなく、このあと西アフリカ各地で見かけるようになるが、決まって男の子ばかり。食べ盛りの彼らは家で食べたりない分を、こうして補っているのだろうか。

■ドゴンのガイド攻撃に対抗したのだ(バンディアガラ/3月19~20日)

ジェンネをあとに、いよいよマリのハイライト、ドゴンへ。ドゴンはブルキナファソ国境に近いバンディアガラの断崖周辺に点在する小さな村村で、伝統的な宗教体系、さまざまな仮面の儀式、独自の神話世界を持つことで知られている。それらの村を訪れるには徒歩でしか行くことができず、ガイドブックには「ドゴンを旅するにはガイドが必要」と書かれている。そのため、ほとんどの旅行者がガイドを雇うのだけど、実際はガイドなしでも行くことはできる。それに、私たちは自由きままに村を見て回りたかったし、ちょっと覗く程度でよかったから、ガイドを雇う気はまったくなかった。だいたい、トレッキングなんて気分にはなれない。何しろ、暑いのだ。40℃を軽く越える炎天下を歩くなんてたまらない。  それなのに、シーズンオフで仕事が少ないせいもあって、ガイド雇え攻撃はすさまじかった。首都バマコから始まり、ニジェール川観光の町、モプティでひっかかる人も多いが、バイクという自分のトランスポートを持つ私たちにとっての最初の関所はガイド協会のあるバンディアガラ。ここはドゴン南部の拠点にもなっている。  まるで情報もないので、「オーベルジュ・カンサイ」に泊まることにした。ここはバンディアガラにある安宿で、ガイド連中がたむろしていて、カモが来るのを手ぐすね引いて待っているのだった。  私たちがガイドを雇わずに行く、というと村への入村料金が1日4人で5000CFA(1000円)かかる、という。自由に行けるのなら払おう、と思っていたら、今度は「何があっても責任は自分たちで取る」という書類をポリスに行って書け、と言ってきた。  こうなったら、とことんやってやろう、とその気でいたら、今度は書類は書かなくてもいい、と七転八転し、威かし攻撃に替わった。  「ドゴンには英語はおろかフランス語さえ話せる人はいない」(ウソだった)。「村には村人以外入れないエリアがあって、知らずに入ってしまったら大変。この間も外国人が大変な目にあった」など、あの手この手を使ってくる。ポリスもグルになって、どうにかして私たちにガイドを雇わせようとやっきになっているのだった。  ガイドのことでもめていると、バマコで会ったカナダ人のピーターがやってきた。彼によると、今日から5日間の日程で他のカナダ人グループと一緒にトレッキングに出かけたけれど、丘の上にある村へ寄らなかったり、逆に行きたくもない土産物屋に連れて行かれたりして、ツーリスティックでうんざりしたので、彼だけ今日で終わりにして戻ってきたとのこと。それを聞いて、ますますガイドを雇う気が失せた。  ガイド業が大きな収入源になっているのはわかるけれど、数日間も一緒に食事も寝泊まりも、すべての行動を共にしなければならないのがうざったい。私たちは自分たちのペースで、もっと自由に歩いてみたいし、村の人たちともハイドを介さないで交流したい。それがまったく無理、だなんてことはないはずだ。それにガイドに払うお金が果たしてドゴンの村村に還元されているのか、それも疑問だし。ガイドに払うよりは直接村へお金を払ったほうがいいのではないか。いろいろ考えさせられるガイドシステムなのだが、ほとんどのツーリストは雇っているのが現状でもある。

■さらなるガイド攻撃(ドゴン/3月20日)

頑張ってガイドを振り切って晴れて自由の身になった私たちは、4台でジギボンボの村へ向った。ジギボンボはドゴン南部の村の中では大きいほうで、トレッキングのスタート・終着地点になっている。ここまで車かバイクで連れてきてもらい、歩き始めるのが一般的なコースなので、私たちもまずここに泊まることにしたのだけど、ここでもやっぱりガイドがいて、フリーでやってきた私たちをカモ、とばかりにくどくのだった。もう、いいかげんにしてくれ~!  私たちにまったくその気がないとわかると、今度は手法を替え、「村で何か問題が起きたときのために、許可証を書いてあげよう」などと言ってくる。もちろん有料だ。当然断る。たかだかガイドが書いた紙切れが何の役に立つのか疑問である。第2の関所もなかなか大変なのだった。  は~、自由になるのって、疲れる。

■やっぱりガイドは不要?(ドゴン/3月20~25日)

ジギボンボで日本人の大学生、K君に会った。彼はガイドを雇って来ていたが、重い荷物を背負う彼に比べてガイドは何も持っていない。「少しは持ってあげたら?」と言うと「俺はポーターじゃない。必要ならポーターを雇えばいい」というふてぶてしい態度。こんなヤツの分まで金を払って一緒に旅するなんて冗談じゃない! しかも、ジギボンボから次の村、カニコンボレまで5kmほどの距離を歩いて行くという。ここは未舗装だが広くて立派な道路が通っていて、車やバイクならすぐなのに。途中に村があるわけでもなく、はっきり言ってガイドの日数稼ぎ(ガイド料は1日当たりの料金)に他ならない。そのカニコンボレから先も砂の深い未舗装だけど、オフ車ならまったくノープロブレム。10kmほど先のエンデという村までは何も問題ない。そこからは徒歩でないと行けないところがあるそうなので、私たちはエンデの村まで日帰りで往復した。道もわかりやすいし、わからなければ村の人が教えてくれる。村にもちゃんと英語を話せる人もいたし、ガイドがいないからと、入村拒否されることもなかった。逆にガイドがいないので村の人たちも直接私たちに話しかけやすいようにも思えた。  私たちは結局ジギボンボに2泊して観光向けでない仮面の祭りも見られたし、テリの村に2泊して村の人たちとも仲良くなれた。  ガイドを雇うメリットも確かにあるし、いいガイドさんもちゃんといるけれど、ガイドと一緒じゃなければ行けないわけじゃないのだから、もっとツーリストの意向も考えてガイドシステムを改善すべきでは? といろいろ考えさせられたドゴン村なのだった。