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ルーマニア・モルドヴァ 2002年5月19日~5月31日

ルーマニア・モルドヴァ 2002年5月19日~5月31日

■ルーマニア今昔
1989年12月のルーマニア革命はすさまじかった。国民の反政府運動、大統領夫妻の処刑。1989年11月、ベルリンの壁が崩れたのをきっかけに起こった一連の東欧革命の中でも、一番悲惨な流血革命を味わったのがルーマニアだった。当時、その映像をTVで見て東欧に興味を持ち、ドイツで買ったKMX125で旅したのが1990年夏。ビザはもちろん必要だったし、ガソリンもクーポン制、強制両替のある国も多かった。特にルーマニアはツーリストもほとんどいなかったし、街の地図さえ手に入らない状態。ホテルも少なくて外国人料金だったけど、そのぶん、地元の人たちが親切で、あちこちで家に泊めてもらった。革命以前は秘密警察もいたし、外国人と接するのもご法度だったせいもあり、みんな外国人と話したがっていたし、珍しい日本人とあって、声をかけてくれたのかもしれない。
あれから12年、ルーマニアはどう変わっているのだろう。

■ブカレストの「負の遺産」(5月19日)

国境での手続きもスムーズに済み、いよいよルーマニアを走り始める。ジプシーの幌馬車をたくさん見かける。2頭建ての馬車に大きな幌を付け、そこに寝泊まりしながら移動生活をしているようだ。たくましいなあ。ルーマニアはジプシー人口が多いが、特にブルガリア国境に近い南部でよく見かけた。
首都ブカレストでは「国民の館」に寄ってみた。故チャウシェスク大統領が1500億円もの税金を使って建てたもので、床面積の大きさでは米国国防省ペンタゴンに次ぐ規模らしい。国民の館の前はパリのシャンゼリゼを真似て造ったという大通りがあり、巨大なビルなどが並んでいるが人通りも少なく、よく見るとビルには「FOR RENT」の文字があちこちにあって閑散としている。実際、繁華街はここから外れた場所にあり、この一帯は共産主義の遺物という感じで、広いだけの空虚な空間になっている。恐怖政治を味わった国民にとっては、共産主義時代を思いださせる、「負の遺産」なので近寄りたくないのかもしれない。

■自由の国、ルーマニア(5月19日)

ブカレストには泊まらず、さらに北上するが、交通量はけっこう多い。ルーマニアナンバーの車に混じってトルコナンバーのトラックやドイツ、ハンガリーなどの車もいる。おそらく戦争でユーゴスラビアが通行困難になったため、西欧からハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、トルコというルートが大動脈になったのだろう。幹線道路沿いには、そうした車のために立派なガソリンスタンドもあるし、モーテルやレストランもたくさんあり、どこもそこそこ賑わっている。
ルーマニア初日はシナイアという避暑地に近いモーテルに泊まった。ツインで300レイ(1150円)。外貨払いも強要されない。法外な外国人料金はなくなったし、こんなに自由にルーマニアを旅できるようになったなんて、当時を知っている私としては大きな驚きだった。

■かわいらしいドラキュラ城(5月19日~23日)

ルーマニア中部にあるトランシルバニア地方の小さな村、ブラン。ここにはブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなった、ウラド・ツェペシュ伯爵が住んでいた、というブラン城がある。1377年に建設されたものだが、お城はおどろおどろしい吸血鬼のイメージとは違ってこじんまりしてかわいらしい。
伯爵も実際は吸血鬼ではなく、「串刺し王」の呼び名もあったように残虐な性格から生まれた伝説らしい。とはいえ、その伝説のおかげで何の変哲もない小さな村がルーマニアを代表する観光地になっているのだから、ドラキュラさまさまである。ルーマニアの小学生たちも遠足なのか、ワイワイ騒ぎながら見学していた。
12年前の旅ではガソリン不足と日程の都合でティミショアラ~ブカレスト~黒海というルーマニア南部しか行けなかったので、自然よりも人との触れ合いばかり印象に残ったが、今回、ブラン城をはじめ、中北部の山岳地方を回ったら、また違う魅力を知り、ますますルーマニアファンになった。田舎にはかわいらしい造りの家々がたくさんあり、山岳風景も素晴らしかった。まさに「東欧の田舎」的な景色が広がっていたのだ。

 

■国境の町の腐ったポリス(5月23日)

ルーマニアの北東部にあるモルドヴァは旧ソ連の国。ヨーロッパはイマイチ刺激がないので、ロシア的な国に行って変化をつけよう、と足を延ばすことにした。  まずルーマニア側の国境の町、フシへ向かったが、街の入口でポリス2人に止められる。無表情だったので、「これは悪いポリスだ」と思ったら果たしてそうだった。ここはバイクは通ってはいけない道路だったという。よく見るとたしかに標識はあったけど、兵士のお兄さんが「こっちを通れ」と手招きしていたから通ったのに。さてはグル? 罰金は7000,000(2666円)レイだと言っている。久しぶりに腐ったポリスだ。悪い習慣が残っているのか。  それでも、2人のポリスは住民の目が気になったのか、お互い片言のロシア語でやりあっているうちに開放された。まったく困ったものだ、と思いながらもそんな刺激を楽しむ私たち。  この町のホテルの受付はスラブ系のおばちゃん。ニコリともせずに応対するあたり、なんだかロシアを髣髴とさせるけれど、バイクの駐車料金をまけてくれたし、安全な建物内に入れてくれたし、ロシアよりもずっと西側的なんだなあ、という印象。トイレにもちゃんとペーパーが用意されていた(ロシアではなかったり、新聞紙だったりしたのだ)。

■やっぱりあった賄賂(5月24日)

翌日、ビザを取得せずに国境へ向かったが、国境で無料で取得することができた。イミグレーションを無事通過し、何事もなく入国かと思ったら別の建物にいた係官に手招きされ、私たちだけ奥の部屋に通される。お、賄賂か? とワクワクしながら行ってみると、すでに領収書を用意していて「環境税(?)」という名目で1人$5取ろうとする。こういうときは、やたらと反発しないのがコツ。「私たちはロシア、カザフスタンほか旧ソ連の国を通ってきたけれど、他の国ではこんなことはありませんでしたよ。同じ旧ソ連なのに、なぜモルドヴァだけそんなものがあるの?」などと各国のビザを見せながら聞いたら、さっさと引っ込めてしまった。ほーれ、見ろ、という感じ。だいたい「密室」、というのが怪しい。正規のお金なら公然とやれるはずなのだ。

■首都キシニョウはロシア的?(5月24~26日)

とりあえず首都キシニョウまでは一直線で向かった。林が続くだけで、人家も何もない道路を100kmほど走ると、突然キシニョウの町が現われた。キシニョウの町は首都ながら小規模で、人口70万。無機質な都会であまりおもしろみがない。マクドナルドはあったけれど、旧ソ連の国はどこも街に活気が少ない感じがする。ツーリストもほとんど見かけないので、東欧諸国のようにプライベートルーム(民宿)の客引きが声をかけてくることもない。  ホテルは高そうなところばかりだったけれど、旅行会社に1泊15ユーロという安いアパートメントを斡旋してもらい、バイクは駅前の管理駐車場に預かってもらうことになった。路上駐車は危険、というのは旧ソ連共通のようだ。  アパートメントといっても、オンボロ団地の中の5階。ごく普通のモルドヴァ市民が住んでいる住宅地である。団地の入口にカフェがあったので、そこでビールを飲むことにした。なにしろ、ここはとっても暑いのだ。5月半ばだというのに、30度を越しているし、湿度も高いのか荷物を運んでいるだけで汗だくだくになる。黒海地方は暑いと聞いていたけれど、これほどとは。  冷えたビールを飲んでひと息ついていると、隣のテーブルのおじさん2人が声をかけてきた。お、なんかロシアみたい。ロシアではよくこうして話しかけられたものだった。  なんといっても、ここは旧ソ連。もちろんロシア語が通じる。忘れかけていたロシア語を駆使してコミュニケーションを図る。おじさんたちは、ビールと一緒にウォッカを飲んでいる。さすが、もとロシア人! 私達にもウォッカをごちそうしてくれた。カフェのお姉さんも気さくに話の輪にはいってきて、ノートを持ってきて「何か書いて」と言うので、イラスト入りで名前を書いた。そうすると今度はおじさんが、私たちのために立派なノートを買ってきてくれた。びっくり。どうしてこんなに親切なの?

■出国時のイザコザ(5月26日)

キシニョウに2泊しただけで、ルーマニアに戻ることにした。ロシアチックな雰囲気は充分楽しめたし、もういいや。とにかく暑くてたまらないのだ。  今度は別な国境から出国したのだけど、入国のときに税関申告は不要だ、と言われたのに、ここでは「税関申告はしなくてはならない。していないのなら、ここでお金を見せろ」と言いだした。お金を見せろ、なんてまるでニセ警官の手口。チェックするふりをして抜き取るのが目的かも。今度は手法を変え、「アフリカやイスラムの国ならともかく、ヨーロッパの国では、そんなことは言われたことがない。ここはヨーロッパでしょ?」と、「ヨーロッパ」を意識させた。かなり効果的だったらしく、「まあ、いいや」となった。  やっぱり、いろいろ社会主義的なシステムが残っていたモルドヴァだった。ヨーロッパが退屈なのでこういうのを求めていた感もあり、なのだが。

■ルーマニアに再入国し5つの修道院へ(5月26日~28日)

ルーマニア北東部、ブコヴィナ地方の山岳地帯に、「5つの修道院」がある。外壁に見事なフレスコ画(壁画)を残し、独特の形をした教会や聖堂が8つ点在していて、そのうち保存状態のいいものが「5つの修道院」として観光名所になっている。うち4つはユネスコの世界遺産にも指定されるだけあって、なかなか素晴らしい。周囲の緑にマッチして絵ハガキのような風景。修道院の中では黒い服を来た修道女たちが静かに生活していて、ゆったりとした時間が流れている。
交通が不便なせいもあるし、まだ夏のバカンスシーズン前のせいか、意外にツーリストは少ないのだけど、日本の団体ツアーのバスも来ていた。「バルカン半島の世界遺産を巡る」などと銘打ったツアーなんだろうけど、東欧のこんな奥まで来るとは、日本人のおじさん、おばさんもなかなかやるなあ。

■カバーニャは最高なのだ(5月28日)

ルーマニアのキャンプ場には小さなバンガローが併設されている。道路沿いのドライブインにもあることも多く、トラックドライバーが利用していたりする。見かけはイマイチでも、中にはちゃんとベッドがあって、ホテルの部屋と変わらないし、共同のシャワー、トイレも清潔。なんといってもバイクが部屋の前に止められるのと、荷物の出し入れがラクなのがいい。小さなデッキも付いているから、洗濯物も干せる。それで2人で5~10ユーロ(575~1150円)と格安。モーテルも安いけれど、私達はもっぱらカバーニャを利用し、併設されたレストランで食事をしていた。物価の安いルーマニアでは、それでも2人で1日30ユーロくらいで済んでしまう。街中にはプライベートルーム(民宿)もあり、やっぱり安く泊まれるけれど、バイクの旅にはカバーニャが最高!

■日本大好き! の女の子たち(5月28日)

「5つの修道院」を見学し、山道を下りてカンプルング・モルドヴェネスクという街に出ると、おじさんがしきりに私たちに話しかけてくる。ルーマニア語でさっぱりわからないが、片言の英語ができる通りかかりの人が通訳してくれたところによると、「娘が日本に行ったことがあって、日本語をしゃべるからぜひ会ってくれ」とのこと。ちょうど雨も降って来たし、昼食がてらカフェで待っていると、おじさんの娘のララさんとその友達のエレーナさんがやってきた。日本には4年くらい行っていたとか。今年1月に戻ってきたばかり。日本語はまあまあだが、英語はかなりいける。2人とも20代前半くらい?
話を聞いていると、どうも外国人パブのようなところで働いていた様子。「また日本に行きたい。日本大好き」と口を揃えて言う。ビザの手配や仕事先の斡旋までしてくれるエージェントがあるそうだ。
2人ともルーマニアに戻ってきてからは働いていない。「ルーマニアじゃ働いてもしょうがない」といったニュアンスだった。それでいて携帯電話も持っているし、自分の車も乗り回している。
たしかに、日本で稼げるお金を考えたら、ルーマニアで働く気になんてなれないだろう。田舎では老いも若きも家族総出で畑仕事をしているし、いまだに馬車や牛車が大活躍している。私たち旅人にとってはそれがルーマニアのいいところに思えるんだけど、彼女たちの目には「貧乏で遅れた国」としてしか映らないのかもしれない。なんだか複雑。

 

 

 

 

 

 

 

 

■マラムレシュ地方の「陽気な墓」(5月29日~31日)

彼女たちと別れ西へ向かい、マラムレシュ地方の山岳部へ向けて走ると再び雨になる。ジェベルの調子も悪くなるし(後でリーク箇所が判明。プラグキャップの回りに土が溜まり、排水できずにいたのだ)、雨はキライなのだ。
マラムレシュ地方の山道へ入る前、BMW&ホンダに乗る2人組のドイツ人ライダーに出会った。東欧に入って初めて出会ったツーリングライダーだ。さすがドイツ人だけに装備もしっかりしている。彼らは3週間の休暇でハンガリー、ルーマニア、ポーランドを旅しているとか。ドイツでは6週間の休暇が法律で認められているが、半分ずつに分けて取る人が多いらしい。それでも日本人に比べるとうらやましい限り。
彼らと一緒に雨の中を走り、サプンツァという小さな村のキャンプ場に泊まった。一見何の変哲もない村だけど、「陽気な墓」が有名で、マラムレシュ地方唯一といっていい観光名所にもなっている。 墓標には料理をしていたり、はた織りをしていたり、木を切っていたり、ギターを弾いていたり、その人が生前、何をしていたのか、何が趣味だったのかがよくわかるような絵が描かれている。車の事故で亡くなった人の墓標には車がぶつかっている場面などもあった。
誰が始めたか知らないけれど、おどろおどろしい戒名が書かれた墓標より明るいイメージで楽しんで見学できる。こんな墓ならいいなあ、と思う。
翌日は残念ながらまたしても雨。勤勉なドイツ人2人は出発したが、怠惰な日本人2人は天気待ちでもう1泊。雨はやっぱりイヤなのだ。

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