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エストニア・ラトヴィア・リトアニア 2002年8月14日~8月27日

エストニア・ラトヴィア・リトアニア 2002年8月14日~8月27日

■やっぱりあった「見えない壁」(タリン)<8月14日>

フィンランドのヘルシンキから1時間20分ほどであっという間にエストニアの首都タリンに到着した。 ここでは入国審査もしっかりあって、久しぶりに緊張する。私たちのバイクはヨーロッパ登録でないし、当然グリーンカードもないため、入国手続きに1時間以上もかかった。  やっと開放されてタリンの町を走り出す。10年ちょっと前までソ連だったわりには看板などにキリル文字をほとんど見かけない。ロシア的なものは排除される傾向にあるのだろう。実際にはロシア人もたくさん住んでいて、あちこちでロシア語を耳にするのだけど、エストニア人は当然、ロシアを嫌っている。なんだか複雑。  旧社会主義を実感したのは、北欧にはあれだけたくさんいた、西欧ナンバーのキャンピングカーやライダーをほとんど見かけなくなったこと。それを物語るように、キャンプ場もタリンの近くに1つしかない。途中に看板も全く出ていないし、周辺の住民に聞いても、その存在を知っている人はごく少なかった。  ヘルシンキからたった85kmしか離れていないので、もとソ連とはいえ北欧とそれほど変わりはないだろう、と思っていたけど、やっぱりまだまだ大きな壁がある感じ。  「エストニアは危ないから気をつけろ」とフィンランドで言われたけど、その点では問題なく、いたって平和で危ない雰囲気はまったく感じられない。ユネスコの世界遺産に指定されている旧市街には石畳と古い建物が残り、観光客もいっぱいいた。旧ソ連というより、ドイツの地方都市、といった感じだ。ここもハンザ同盟の街らしい。ドイツの影響はバルト海全域にも及んでいる。すごい。

■キャンプ場の旅人たち(タリン)<8月14~15日>

キャンプ場は混みあっていた。というか、敷地が狭いので仕方がなく隣との距離が短くなり、その分、話す機会も多くなる。その中の一人、ドイツ人ライダーのマニュエルさんは、フリーランスでコンピューター関係の仕事をやっている。シベリア鉄道で中国まで行ったり、南米も数回旅しているという旅好き。今回はたった10日間だ、と言っていたけれど、ドイツから10日間だけの休暇で、気軽に国境を越えて海外ツーリングができるなんて、島国日本から比べるとうらやましい。  ヨーロッパでは日本人がバイクや車で旅するのはとっても珍しい。私たちの『J』マークも「初めてみたよ」と珍しがられる。ヨーロッパの場合、『GB』はイギリス、『F』はフランス、『D』はドイツ、『NL』はオランダ、『E』はスペイン、『CH』がスイスなど、国ごとの識別マークのステッカーを車体に貼っている。EUの国だとナンバープレートにもそうした識別マークが付いているので、どこから来ているのか一目瞭然。でも『J』はまずいない。ユーゴスラビア(JUGOSLABIA)と思われることもある。  次の日、今度はオランダ人のサイクリストのおじさんがやってきた。中国も自転車で旅したことがあるという、おもしろいおじさんで、中国語も少々できるし漢字も少し読めるのでびっくりした。59歳というから海外ツーリングライダーの教祖、カソリさんよりも先輩になる。  また、30代らしきスペイン人のご夫婦は、以前アフリカを車で2、3年かけて旅をし、今度はロシア横断を狙っている。エストニアにまで来るツーリストは、なかなか旅のツワモノが多いようだ。

■英語世代とロシア語世代(サーレマー島・ヒーウマー島)<8月17日>

タリンからバルト海に浮かぶヒーウマー島とサーレマー島に渡った。ソ連時代には立ち入りできなかったため、手つかずの自然が残るのんびりした島である。エストニア人にとっては夏といえば島でキャンプ、というのが定番で、たくさんの人がフェリーに乗り込んできた。自転車や徒歩でキャンプ道具をかついで島で過ごす若者たちも多く、日本の北海道的存在のようだ。  たしかに人も少なく、野宿はし放題、自然はいっぱい。だけど、海は遠浅すぎて泳ぐには適してないし、当然釣りにも向いていない。自然といっても北欧で存分にスケールの大きな自然を堪能してきた私たちにとって、特別どうということはなく、やや退屈な感じだった。  そんなときにヒーウマー島でおじいさんにロシア語で話しかけられた。エストニアの人たちはロシアが嫌いなはず。ここではみんなソ連時代に辛酸をなめているので、ロシア語で話しかけるのは控えたほうがいい、と聞いていたけれど、英語が通じなければ使わざるをえない。あまり気にしないほうがいいのかも。  独立後は英語教育になっているけれど、独立前に教育を受けた世代には、英語よりもロシア語が通じる。ちょっと前までソ連だったんだからあたりまえだけど。 「クラシノヤルスク(シベリアの都市)に住んでたことがある」とおじいさんは言っていた。政治犯か何かでシベリア流刑にでもなっていたのだろうか。人の良さそうな笑顔の下には、私たちが想像できない苦労が隠されているんだろう。  8月も後半、そろそろ夏も終わり。過ぎゆく夏を惜しむようにエストニアの人々が遠浅の海で泳いでいるのを後目に、私たちは島を後した。

■ラトヴィアで2ヶ月ぶりのホテル

首都リーガでは2ヶ月ぶりにホテルに泊まった。駅前に建つ「ホテル・アウロラ」、シャワー、トイレ共同のツインで1泊1800円。ここの物価にしては意外に高い。建物は古びているし受け付けもロシアチック(でも愛想はいい)だけど、ハンガリーのブダペスト以来ずっとテント生活だったので、そのうれしさはひとしお。  部屋は広くて洗面台、カラーTV、さらに冷蔵庫まで付いている。濡れた手で触るとビリっとくるシロモノで危険だけど、しっかり働いているようだし、まあいいだろう。とにかく屋根のある建物だし、中央駅のすぐ前、旧市街へも歩いて行けるという最高のロケーションなので文句は言えない。  バイクは24時間管理人のいる駐車場に預けた。街中の安ホテルの場合、駐車スペースがないのが悩みだけど、その分周辺に管理駐車場がたくさんあるのだ。  今まで移動ばかりの野宿(キャンプ場ではない)生活だったので、街のホテルに2泊できる、というだけでもうれしい。さっそく、洗濯、シャワーを済ませて街を歩く。  せっかく街に泊まってるのだから奮発してレストランにでも入ろう、と思ったのだけど、最近外食に慣れていないのと時間が遅かったせいでどこにも入れずじまい。結局マクドナルドで買い食いとなってしまった。ちょっとさみしい。  自然の中でのキャンプもいいけれど、その国の人々の生活が感じられる街歩きも私は大好き。野宿ばかりだと地元の人と話すチャンスも少なくなるし、テントから離れられないから連泊できず移動が続いて疲れるのだ。  反対に健ちゃんは街歩きが大嫌い。ずっとバックパッカーでさんざん旅してきたくせに、「今まで旅の方法を間違えてた。バイクで移動してキャンプしながら旅するのがワシにはぴったり」とのたまう。最近は「もうバックパッカーには戻れない」とも言いだしている。ただ歩くのが嫌いなだけでは?

■リトアニアの一大リゾート地帯(パランガ・8月21日)

ラトビアを出国した私たちはバルト海へ向かった。150kmを一気に走ってパランガという街へ着くと、国道沿いに「NUOMO」と看板を掲げた人たちがたくさん並んでいた。物を売ってるわけではないしヒッチハイクでもなさそうだし。何だろう?   実は自宅の空き部屋を貸す民宿の客引きなのだった。「NUOMO」とはレンタルという意味らしい。  ここはリトアニア人自慢のビーチリゾート。白砂のビーチが何kmにも渡って続き、そのむこうに青いバルト海が広がっている。リトアニア人なら誰もがパランガで夏を過ごしたいと思うのだそうだ。ソ連時代には「海の向こうは自由な西側世界」という、憧れもあったのだろう。  そのため小さなパランガの街はすごい賑わいで、観光馬車が行きかい、浮かれた人々が楽しそうに街を散策している。ビーチにもカラフルな水着姿の人々がゴロゴロしている。こういう雰囲気が大の苦手の健ちゃんは、一目散にメインストリートを通り抜けてしまい、閑散となったところにあったキャンプ場に掛け込んだ。ああ、せっかく楽しそうだったのに、こんなところじゃリゾートの雰囲気もなにもないじゃない。  また、このキャンプ場がとってもシンプルでびっくり。トイレは板に穴を空けただけの、ロシアチックな汲み取り式だった。温水シャワーも1つしかなく、板で囲っただけ。しかも150円も入れて5分しかお湯がでないシロモノ。西欧の快適な施設に慣れていただけに、「お金を払ってこの施設は何だ!」と文句をいいたくなる。焚き火をしてもいいのがメリットだけど(みんなそれで調理するからだ)、これなら野宿のほうが快適。バルト三国のキャンプ場はまだまだ発展途上、とみた。

■バルト海は猛暑だった(ネリンガ・8月22日)

暑い。日本ほどではないけれど、連日30℃近い猛暑が続いている。例年は夏でも最高気温20℃程度なのに、今年は雨も少なく異常に暑い夏だそうだ。一方、チェコやドイツでは大雨が続いていて、プラハやドレスデンなどの都市では洪水でだいぶ被害を受けた、とニュースでやっている。これらは世界温暖化による異常気象なのかもしれない。  そんなわけで8月末でも、まだまだ暑さの盛りという感じで、パランガの南にある砂洲、ネリンガも同様にリトアニア人のツーリストで大賑わい。海水温はあまり高くないけれど、みんな水着でビーチに寝そべっている。北の国の人々は太陽に貪欲なのだ。  この先、スペインまでしばらく海ともお別れ。同時に夏も終わりになると思うと、なんとなくさみしい。その通り、翌日から急に涼しくなった。秋ももうすぐそこだ。

■日本のシンドラーを訪ねる(カウナス・8月23日)

杉原千畝(ちうね)という人をご存知だろうか? 杉原氏は1939年~1940年、カウナスの日本領事館に領事代理として赴任し、その間に多くのユダヤ人を救った「日本のシンドラー」である。  現在の首都はヴュリニュスだが、当時ヴュリニュスはポーランドに占領されていたので、リトアニア第2の都市、カウナスに各国領事館が置かれていた。

◆ 時は第2次世界大戦勃発直前、リトアニアもソ連軍に侵攻されつつあり、日本領事館も退避勧告が出されていた頃、日本領事館前に突然、大勢の人がやってきた。彼等はみなナチスに追われ、ポーランドから逃れてきたユダヤ人たち。ロシアを通ってアメリカへ行くために、どうしても日本の通過ビザが必要だった。それ以外に生きる可能性のあるルートはなかったのだ。  しかし、日本はドイツと同盟を結んでいたので、彼等にビザを発給することは国に対する背徳行為にもなる。日本政府からの答えも当然、否。しかし、日本のビザがないとユダヤ人たちはナチスに虐殺される…。悩んだ末、政府の意向に反して、杉原氏は独断でビザを発給することに決めた。  それから2週間、杉原氏はリトアニアを出国するまで休みことなくビザを書き続けた。彼が発行したビザは1700、それによって6000人ものユダヤ人が命を救われたという。   だが、そのことで帰国後、日本の外務省を退職させられ、亡くなる前年の1984年、イスラエル政府により、「諸国民の中の正義の人賞」を与えられるまでは、彼の功績は世界に知られることはなかった。

◆現在は記念館となっている旧日本領事館を訪ね、日本語ペラペラのヴィタリユさんにガイドしてもらった。大阪外語大学に1年間留学していたので、日本のこともよく知っている。記念館ではビデオ上映などもしていて、まだまだこれから充実させるとのこと。  その日は私たちのほかにも、3人のユダヤ人が見学に来ていた。杉原氏のビザによって命を救われた人たちが訪ねてくることも多いそうだ。こういう人がいたのだ、と思うと同じ日本人として誇らしい。

※杉原氏のことについては、夫人の幸子さんが書いた「6000人の命のビザ・新版」(大正出版)に詳しい。

■子猫を連れたサイクリスト(カウナス・8月23~24日)

杉原記念館で感動したあと、カウナスの中心地へ戻り、ツーリストインフォメーションへ行ってみると、変な自転車が止まっていた。身障者用かと思ったらそうではなく、単に変な形なだけ。私たちだけでなく、リトアニアの人たちもジロジロ見ている。  オーナーは28歳のスイス人で、今回は5月から半年間、ヨーロッパを回ってる旅人だった。今回の旅の途中、スウェーデンの農場に泊まったとき、産まれたばかりで処分されるという子猫をもらい、以来、一緒に旅をしているという。  彼と一緒に街でビールを飲んでいると、おじさんに英語で話しかけられる。UPSという会社の人らしい。そのほかにも、通る人々がみんな私たちを見て行く。そりゃあそうだろう、変な自転車と大荷物のバイク2台、子猫までいて目立たないわけがない。  彼はいつも野宿で、宿代にお金を使わない主義。シャワーや洗濯も川で済ませたり、かなりワイルドな生活をしているようだ。そのわりにはビールを3杯立て続けに飲んでいたので、エンゲル係数は高いと見た。  話もはずみ、今日は一緒に野宿をしよう、ということになった。ツーリストインフォメーションで聞くと、キャンプ場はないけれど、郊外の森でキャンプできると言うので、出かけてみた。でも、そこは市民の憩いの場で、車やバイクは入れないし、「キャンプ禁止」の看板もある。散歩にきている市民もいっぱいいるし、どうしよう? と考えたけれど、ツーリストインフォメーションがオススメしてくれた場所なのだ。まあ、いいだろうと野宿場所を確保した。  スイス人の彼はいつもパンやヨーグルトだけの食事で、しばらく暖かいものを食べていないというので、健ちゃんが牛丼を作ってごちそうした。「スイス風だ! うまい!」と喜んでいたけれど、牛丼のどこがスイス風なのかわからん。よほど貧弱な食事をしていたのだろう。

■「扉」は最高なのだ(ヴュリニュス・8月24日~27日)

翌日、直接ポーランドへ向かう、という彼と別れ、私たちは首都ヴュリニュスへ向かった。  ヴュリニュスは人口56万も住んでいるわりには、静かで落ちついた雰囲気。旧市街の中にあるホステルにチェックインし、早速でかけた先は観光名所などではなく、日本食レストラン「扉」。健ちゃんが某ガイドブックをチェックし、8ヶ月前から目を付けていたところだ。物価が安いことだし、ヴュリニュスでは外食三昧しよう! ということにしたら、3泊の滞在中、「扉」へは4回も通ってしまった。  何しろ、トンカツが14Lt(462円) 、カツ丼が17Lt(561円)、天丼が17Lt(561円)、にぎり寿司が1つ4Lt(132円)など、外国の日本食レストランとしてはかなり安い。飲み物は味噌汁は8Lt(264円)、お茶が6Lt(198円)もする。ビールは0.3㍑で3Lt(99円)。当然ビールを頼む。久々の日本食、ああ、なんてシアワセ。長旅が続くと何でもない日本の味が妙に恋しくなるものなのである。  ところで、泊まったホステルは大学の寮を夏休みの期間だけ旅行者に開放したもので、学生が管理・運営している。外国にはこうしたシステムのホステルがいくつかあり、ユースホステル同様に利用されている。寮なので2~3人部屋が多い点では、大部屋ドミトリー形式のユースホステルよりは快適だと言える。  隣の部屋には1人旅の日本人女性、掘北さんもいた。パソコンの検索ソフトの会社の契約社員で、旅のHPを検索・閲覧して、それに対してコメントを付ける仕事をしていたそうだ。仕事で旅関係のホームページを読めるなんて、なかなか楽しそう。彼女はフィンランドからバルト三国へ入り、これから東欧、トルコ方面へ向かうという。ガンバレ、オンナの一人旅。

■現代史の舞台に立つ<ヴュリニュス・8月26日>

バルト三国のうち、ソ連に対する独立運動がもっとも激しかったのがここ、リトアニア。1991年1月、ソ連軍の武装部隊からヴュリニュスの国会議事堂を守るため、数万人の市民がここに集まり、非武装の抵抗を示したという。  議事堂の前にはコンクリートバリケードが当時のまま残されていて、十字架や追悼の碑が建てられている。壁には当時の世相を繁栄した落書きが描かれ、それをペンキできれいに修復している人たちがいた。これらは落書きなどではなく、歴史的遺物なのである。  そのほか、市街から5km離れたTV塔は独立運動の際にもっとも多くの犠牲者を出したところ。TV局を守ろうとここにたてこもった市民をソ連軍が襲い、非武装の市民14人が殺され、多数の負傷者を出した。TV塔の前にはそのときの犠牲者14人を追悼する写真入りの十字架が建てられ、「嘆きのキリスト」が打ちひしがれた様相で座っている。  「血の日曜日」と言われるこの事件は、バルト三国の独立運動ではもっとも激しく、強いものだったという。  時は湾岸戦争勃発前後、世界中の目がイラクに向けられていた頃。もちろんバルトの事件はTVで報道されただろうけど、そのとき私はサハラにいたので、バルトの独立劇はリアルタイムでは知らなかった。残念。  教会や古い街並みにはまったく興味を示さない健ちゃんだけど、こういう最近の出来事はおもしろいらしい。杉原氏のことやナチスドイツとユダヤ人のことも、もっと調べたい、と向学心も目覚めたようだ。  それにしても、こうしてヨーロッパ各地を歩くと、ソ連やドイツといった大国が各国に及ぼした影響が相当に大きいことがわかる。旅をしていると、そうした事実を目の当たりにできるので、学校で習う歴史の授業よりもずっと身に付く気がする。健ちゃんじゃなくてもTVや新聞のニュースも興味を持って見ることができるし、積極的に勉強しよう、という気になる。そんなわけで、日本の若者たちよ、もっと外国を旅しよう! 限りのある人生、引きこもってなんていられないのだ。

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